うつむく狼



 廊下を歩いていたら、どこからか笑い声が聞こえた。
 笑い声、それも爆笑に近いものだ。物理的に若い人間が少ない組の中で、その声の主が誰かだなんて深く考えずともわかりきっていて、だから迷わずに彼女に割り振られている部屋の扉を遠慮なく開け放った。

「お前うるせえよ、外にまで声漏れてんぞ」
「え、ごめん」

 案の定一瞥すらしない。わかってはいたことだけれども、俺の苦情に対して反射のように返される謝罪の言葉に申し訳無さなど微塵も含まれてはいなかった。なぜか部屋の電気を付けず真っ暗な空間の中、青白くぼんやりと部屋を照らすテレビの光がいやに目に眩しい。
 青白い光でより奇妙に照らされている、部屋の随所に置かれたおびただしい数の人間標本の数々をできるだけ視界に入れないようにの背中にそっと近づくと、テレビから1メートルもしない位置で体育座りをしていた。見るときは部屋を明るくしてテレビから離れて見ろよ、幼稚園児だって知ってんぞ、とよっぽど言ってやろうかと思ったけれども、その画面に映る物々しさにぎょっと目を剥く。

「なに見てんだよ」
「ウォーキング・デッド」
「なんつーもん見てんだよ」
「シーズン7まで一通り見たから、今1から見直してんの」

 そんなことは訊いていない。噛み合っていない会話に思わず呆れて溜め息を吐いた。こんな気の違った部屋でそんなドラマを見て爆笑している気が狂った奴なんて、きっと後にも先にもこいつだけだろう。画面の向こうではちょうど、およそ生者とは思えない(実際生者ではないのだけれども)色の肌をしたゾンビがワイルドなビジュアルの男にクロスボウで頭を射抜かれているところだった。ナイスショット、とでも言うかのようにが口笛を吹く。おいやめろバカ。

「お前これ見て笑ってんの?頭おかしんじゃねえの」
「トウヤくんなに言ってんの。こんな腸詰めのソーセージみたいに皮肉の詰まったドラマ、笑わずにいられないでしょ」
「お前がなに言ってんだ」

 ゾンビによる世界の終末を迎えた後の荒廃したアメリカ合衆国で蔓延るゾンビから逃れつつ、安住の地を求め旅をする少人数のグループを描くポスト・アポカリプスホラードラマ。そんなあからさまに明るいところなどない作品のどこに爆笑する要素が含まれているというのだろうか。
 画面の中では、生者がゾンビに扮するため死者の肉体を斧でクラッシュゼリーみたいにぐちゃぐちゃにして、血や内臓を衣類に擦り付け、腸をまるでネックレスかのように首から下げているシーンで、フィクションであることはわかりきっているけれども内心うんざりしてしまった。きっと今の場面がフラッシュバックしてしまうだろうから、暫く生肉は見たくない。あまりに直接的な描写は映されていないにしろ、こんな十人中十人がグロいと言うに違いないシーンを見ながら「焼き肉食べたい」などとぼんやり呟くこいつは頭か神経がどうかしている。いや、もしかしたらイカれているのは両方かもしれない。脳ミソの代わりに蒸しパンでも詰まってるんじゃないのか。

「……『人はみんな自分は死なないと思っている。いつか命が尽きることを頭では理解していても、それは今日や明日じゃないと思っている。だけど死ぬ。今日も死ぬし明日も死ぬ。事件で事故で病で偶然で寿命で不注意で裏切りで信条で愚かさで賢さでいつだってみんな死んでいく』」
「んだよそれ」
「或る漫画の"負"が言ったセリフだよ。僕はこれ、意外と真理なんじゃないかと思っていてね。このドラマの主人公だって、自分の命を脅かすならば"ウォーカー"じゃない生者だって殺すんだよ。それを自己防衛のためと正当化して心の安定を必死に保ってる。殺人に善も悪もないっていうのに。生命はそのものに与えられた権利で、それを奪うものはたとえ国家であっても人殺しだ」

 殺す事は許し望まれている。映画やテレビ、マンガの中などの物語に於いて、現実の世の中に於いても戦時中などに多くの敵を殺した者は英雄と敬われる。けれども善人と英雄はイコールでは結ばれない。神を気取る未熟な作者達によってご都合的に決め付けられた独善的な善悪など妄想の世界だ。英雄とは自らが果すべき事を成す者だ。その時、その場、なにに対して、どうするべきかを解し、己が成すべき事を行動できる。その意思を自らの心の奥底から信じられ、その意思に触れる周りの者達から支持される、人の感情として好意を得られる者だ。誰が言い出したのかも解らぬ善悪感ではない。英雄は決してキャラクターとして作られるものではなく、人々から望まれ生まれ出でてくる者だ。

「突飛な話に聞こえるかもしれないけどね、僕は別に死刑廃止論者じゃないんだよ。目には目を、歯には歯を、殺人には殺人を。立派な制度だ。ただ人知れずこっそり始末することが卑劣だって思ってるだけでね」
「白昼堂々と殺せってか?」
「そう。青空の下、市中引き回しの上、磔火炙りにした上でみんなで一刺しずつ刺して首を晒し万歳三唱した方がずっとずっと健全だよ。でも愚かな国民は自らが人殺しになる覚悟がないんだ。自分たちは明るいところにいて、誰かが暗闇で社会から消し去ってくれるのを待つ。そうすればそれ以上死刑について考えなくて済んでこの世界が健全だと思えるからね。だからヴィラン退治は全てヒーローに任せて押し付けて見て見ぬ振りして終わり。尊重されなければならないはずの人権を守るべき対象だったはずの国民に殺され、ヒーローという偽善の皮を被った社畜の誕生だ」

 まるで言葉の機関銃だ。確かに誰も責任を負わず、見たくないものを見ず、みんな仲良し小好しで暮らしていけるのであればそれはどんなに気楽で簡便で沖融たることか。けれども、誇りある生き方をしたいのであれば見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。戦うということはそういうことだ。愚痴なら病院のベッドか墓場で言えばいい。ヒーローを社畜呼ばわりするこいつの感性は些かどうかと思うけれども、強ち間違っていないと思うのは俺が所謂世間一般的に"敵"と呼ばれる組織に属しているからだろうか。決してこいつが舌に乗せる継ぎ接ぎの倫理哲学論に毒されているわけではない、と、思いたい。

「目には目を、歯には歯を、悪には正義の鉄槌を、だよ。正義は議論の種になるけれども、力は非常にはっきりしている。だから人は正義に力を与えることができなかった」
「……悪ィけど、俺は誰かがパスカルを引用したら、用心すべきだってかなり前に学んでいる」
「うん、オルテガだね。もしトウヤくんがパスカルを引用してたら、やっぱり僕も同じ言葉を返したと思うよ」

 引用合戦に気を良くしたのか、猫のように目を細めて心底愉快そうに肩を揺らしたは、画面の向こうで繰り広げられる阿鼻叫喚の展開にはもはや興味を失ったかのように立ち上がり、部屋の片隅にぽつりと存在する本棚へと足を進めた。100冊は優に入りそうな棚にはびっしりとハードカバーの本が詰め込まれていて、はそれらの背表紙をなぞることなく迷いなく本を抜き取っていく。
 『1984年』『悪霊』『ガリヴァー旅行記』『あらかじめ裏切られた革命』、手渡された本の数々はどれもこれも反共産主義や反権威主義のバイブルとなった近未来の全体主義で分割統治された社会を描いた作品だとか、無政府主義や無神論、虚無主義、共産主義革命を象徴した作品ばかりだ。スウィフトの著書は有名だけれども、その実態が冒険小説であるだけでなく時代風刺であることは読書家の中では常識であるのかもしれない。なかでも岩上安身はまるで、若頭が夢想家なんかでは決してなく明確な合理的手段により社会変革を画策している人物であることを表しているようだ、と思った。

「……お前、こんなの持ってたのかよ」
「買ってもらったんだよ、"日本語"の勉強をするのに、ひらがな漢字ドリルなんて使わないでしょ?」

 呆れたように問いかけると、にやりと口角をつり上げて笑われる。どうやら、学校に行っていないながらも独学で勉強はしていたらしかった。にしても偏りすぎだろ、という言葉は口に出すよりもまず面倒さが先に立ってしまって思わず飲み込む。こいつの性癖的に『悪徳の栄え』だとか『金瓶梅』だとか『蠱惑の夜』みたいなものが出てくるのではないかと内心身構えていただけに幾分もマシな方だ。そんなものを出してきたら、多分今頃キレ散らかしていたことだろう。きっと探せば本棚のどこかにはあるのかもしれないけれども、そこまで突き止める気には到底ならなかった。

「お前、学はないとか言っておきながらちゃんと勉強してんじゃねえかよ」
「それでも一般的な同世代に比べたらよっぽど知識量は少ないし浅い方だよ。僕、自分がやりたくないことはしないもん」

 そんなことは言われずともわかっている。の行動原理は大凡自分がそれをやりたいかやりたくないか、或いは自分にとって面白いことであるかそうでないかの二種類しかない。基本的にはシンプルでわかりやすい奴なのだ。それでもどこか雲のように掴めない気概を覚えてしまうのは、こいつの纏う稚気的で浮浪的な雰囲気であったり、ぺらぺらと都合良く舌に乗せられる言葉の数々であったりがひどく不確実で不安定に思えるからに他ならない。
 良心や他人に対する思いやりが著しく欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う。所謂精神病質と呼ばれるその大部分は、殺人を犯す凶悪犯ではなく身近にひそむ異常人格者だ。

「うーん、そうだな、これは僕のモットーでもあるんだけど、トウヤくんにもこれはお誂かもしれないね」
「……んだよ」

 人差し指を唇に当てて首を傾げ、なぜか少し逡巡するように天井を見遣ったは、ぱっと掌を広げて微笑む。そのどこか年不相応な表情に誘発されて、フラッシュバックを起こしてしまった。
 「私とあの人はずっとずっと先まで一緒なのよ」昔、そう語る女が(ごくたまに男もいたけれども)嫌いで嫌いで堪らなかった。張り付けた笑顔でへえそうかよ、と舌には乗せながらも心の奥底では不確かで確固たる希望もない未来のどこからそんな揺るぎない確信と自信が沸いてくんだよ、と彼らを貶して蔑して賎しんでいた。けれども今なら、少しだけ把捉が叶うようになった気がする。

「微笑もて正義を為せ!」

 きっと彼ら、或いは彼女らは、信じていたのではなく、それを信じたくて願っていたのだ。言霊のように口にして希望を、願望を、渇望をかたちあるものにしたかったのだ。
 俺は、今自分が心の奥底で思い描く未来を信じたくて信じたくて、堪らない。口に出せないで心の奥底に沈殿している言葉が現実になるその日を、ずっと待っている。