「なにやってんだお前」
「えぇ、なにって、お酒買ってきただけだけど」
どう考えても決して明るいとは言えない廊下に不釣り合いな、がさがさとビニール袋の擦れる煩わしい音が響いて耳に障る。突っ張った袋の形状を見るに中身は相応に重量を持ったものなのだろうと思ったけれども、返ってきた言葉は僅かばかり予想外の内容であった。
「は?酒?」
「うん、缶のチューハイってやつ。最近のお酒っていろいろ種類あるんだね、ただの甘味料と香料の付いたアルコールってわけじゃないって感じ。あ、トウヤくんも飲む?ビールは買ってないけど。ああ、安心していいよ、ちゃんと身分証明しなくてもいいスーパーのセルフレジで会計したから」
「そういうことじゃねえよ」
訊いてもいないことをべらべらと舌に乗せて、俺が一蹴するとじゃあどういうことなのかと言わんばかりに首を傾げるの白々しい表情に、思わず青筋が立ちそうになったけれどもぐっと堪えた。嫌味にも妬みにも、”本音”にさえも動じない目の前の相手に切れたところで結果は目に見えている。暖簾に腕押しであることがわかっているのにああだこうだと言い立てたところで所詮は徒労だ。
「お前二十歳過ぎてたか?」
「ああ、うん、昨日なった」
それはまるで今日の天気は晴れですねとでも言うような軽さであった。自らの誕生日に執着がないのかと問いただそうとして、そもそもこんな組織にいる人間がまともに自分や他人の誕生日を祝う感慨などあるはずがないと思い至る。そしての誕生日は、こいつが産まれた日であると同時にこいつが親に棄てられたその日を指していた。気持ち良く祝福を享受できる日であるわけがない。
「……そーかよ」
なにか気の効いた一言なんてものを、所詮は似たり寄ったりな境遇である俺が言えるはずもなく。恐らく俺だけが感じている居心地の悪さを誤魔化すように後頭部を掻きながら、口を開いて、また閉じて、結局は何事もなかったかのようにの進行方向と反対側に向かおうと通り過ぎスラックスのポケットに手を突っ込んだとき、指の先になにかが触れた。五指で摘むように触って、つるりとした硬めの感触に漸くそれが包装紙であることに気づき、入れっぱなしのまま忘れていたそれを思い出す。
「おい」
「ん?」
振り返って声を掛けると、首だけを捻って返事をしてくる。ポケットから取り出したそれを放り投げると、危なげもなく片手でキャッチした。両端を捻って包んであるタイプの、一口サイズのチョコレートだ。俺はあまり甘いものを好んで食べるわけではないから元々多部に渡す予定だったものだけれども、別に構わないだろう。それに多部の胃はたかだかひとつの小さなチョコレート菓子で満たされるような代物ではない。
「え?ありがとう、なにこれチョコに見せかけた毒?器用〜」
「ちげえよ、お前じゃねえんだから」
受け取ったチョコレートをまじまじと眺めて、言うに事欠いて毒とはあんまりな言い草だ。人の好意を一体なんだと思っているのだろうか。それに毒だの薬品だのはこいつの専売特許だ。
「珍しいね、トウヤくんがチョコレートとか」
「宝生に貰った」
他人の趣味嗜好に興味の薄そうなこいつにさえも俺の非甘党は知れていたのだろう。ああなるほどと納得したように頷くに、今度こそもう用はないと踵を返そうとして、「あ、待ってトウヤくん」という引き留める声に立ち止まる。
「あ?なん、」
なんだよ、と紡がれるはずであった言葉は不意に途切れた。
いつの間に距離を詰めていたのか、ペストマスクのない無防備な状態の顔に手を伸ばされたものだからこいつの個性を思い出して一瞬ぎょっと身を引いたけれども、それを意にも介さず髪に触れてくる。顔の半分を覆い隠すように伸ばされた右側ではなく、晒された左目側の髪を掬ってそっと耳に髪を掛けた。親指の腹ですいと蟀谷をなぞられて、擽ったさで反射的にひくりと身体が揺れる。
「っ、おい」
「擦り傷、もう完治したみたいだね」
一体いつの話をしているというのか、随分前に俺がマスクに仕込んだナイフの重さで耳の付け根を擦り切らせたことを未だに覚えているらしかった。マスクは結局ベルトの幅を太いものに変更してどうにかしたけれども、そういえば初めに消毒をしてくれたのはこいつだったか、とぼんやり思い出す。若頭の"修復"を使うまでもない怪我だからと自然治癒に任せていたところに、化膿止めやら保湿剤やらの成分が含まれた軟膏を作ってくれたのもまたこいつであった。
「……、おかげさまでな」
「うん、いいことだ」
人間きれいでいることに越したことはないからね、と目を細めて薄く微笑むの顔があんまりにも平素の苛烈さを想像もさせない程の穏やかさだったものだから、一瞬、息が止まるような感覚をおぼえた。いや、そもそも、こいつが倫理観の外れた言動をするのは大体個性を使うときか死体を前にしたときだけで、それ以外は人畜無害とまでは言えないけれども至って温厚だ。それはわかっている、わかっているのに、どうしてここまで心を乱されたような気になっているのか理解が追いつかない。
するりと俺の頬に手を滑らせて、そのまま滑り落ちるように下ろした片手を反対の手に持ったままだったビニール袋の中に突っ込んだ。そうして取り出した缶のひとつを差し出される。期間限定、りんご味。
「身体はだいじにしないともったいないよ、トウヤくんかっこいいんだから」
じゃあね、と空いた片手を後ろ手にひらりと振ったは廊下の向こうへと闊歩していった。それを呆然と見送りながら、俺は未だ回らない頭でぼんやり考える。
好奇心や想像力が異常に旺盛で、空想を現実よりも優先するきらいがあること。一見才能があり博学で、化学技術や医学などなにくれとなく通じていて話題が豊富であるけれども、実のところその知識は他所からの寄せ集めであること。弁舌が淀みなく、当意即妙の応答がうまいこと。どれもこれも、思い当たるの性質は精神病質に程近いものだ。それなのに、稀に顕著になるあいつの魅力というのはどうしたものか。きっと被害者は俺だけじゃない。
本気なのか嘘なのかわからない言動もあいつの性質だというのに、それを真に受けて振り回されている自分が無性に腹立たしくなってしまった。思考は至って冷静だけれども、それでも無意識下で熱を持つ首の裏に受け取った缶をひたりと当てる。
なんとなくの勢いで受け取った缶は、買ったばかりの時と比べれば随分と温くなっているのだろうけれども、それでも未だ、僅かにひんやりとしていた。