世界の深潭で愛を叫ぶ



 クロが二階から落ちてきた。
 嘘だ。二階じゃなくて組の地下通路、ヒーローや警察が捜査令状を携えて家宅捜索に乗り込んできたから応戦しつつ壊理を隠すという算段を整える最中、凄まじい轟音を立てて天井と一緒にクロ、基玄野は降ってきた。治崎の個性だったのだろう、穴の空いた天井は既に塞がれている。は珍しくばくばくと激しく脈動する自らの平らな胸に手を当て深呼吸をした。危うく瓦礫に生きたまま埋もれてしまうところだったというのに、玄野は一人のヒーローを押さえつけていてのことは気にも留めていない。

「うわ、イレイザーヘッドじゃん」
「ああ、いたんですね、プラストミック」
「いたんですねじゃねーーよ危うく生き埋めになるとこだったわ」
「最近窃野に口調が似てきやしたね。まあ、死んでもオーバーホールに修理してもらえるでしょう」
「ええ〜〜、あいつ僕のこと直すかなあ、自分でなんとかしろとか言われそ」

 首を傾げながらよっこいしょ、とやや年寄りくさい表現で玄野の隣に所謂うんこ座りでしゃがみこんだは、じろじろと物珍しげに黒ずくめのコスチュームを纏ったイレイザーヘッドを観察する。“銃弾”を作るときに参考にした個性を持つヒーロー。その能力も欠点もおおよそのことであれば頭には残っている。
 既に玄野に“短針”でも刺されたのだろう、どうにか身体を動かそうとしているけれどもカタツムリのような速度でしか身動きが取れていない。

「どうもこんにちはイレイザーヘッド。ヤクザで〜〜す。もしかして僕の個性もそっちに漏れてたりする?アングラヒーローの人間標本にも興味はあるけど、今は使う予定もないから安心してよ。まあどうせその姿じゃ……ああ、だから目隠ししてんのか」

 一人勝手に喋り出しては一人勝手に納得したように頷くを、ペストマスクを外した玄野は呆れた顔で黙殺した。
 触れただけで個性因子へ直接影響を与える壊理のそれと違って、イレイザーヘッドは自らの目で見たものに対してしか抹消の個性を発動できない。つまりは視界を塞いでしまえば無力も同然なのだ。窃野に於いても同じ様なことが言えるけれども、往々にして目を酷使する個性は目を塞いでしまえば使い物にならない。対処としてはこれ以上なくもっともな方法だ。そして先程まさに窃野自身も同じ様な方法でサンイーターに完封されているのだけれども、それをが知るのは少なくともまだ先の事である。
 今日は別段機嫌も悪くはないのだろう、結構なシリアスシーンだというのに、このままではへらへらとしたに張り詰めた空気を壊されかねない。

「そうそう、イレイザーじゃなくてもいいんだけどさ、もし先生ってやつに会ったら訊いてみたいことがあったんだよ。これ喋れるっけ?」
「たぶん無理じゃないですかね」
「無理かあ、でもどうせ終わるまで暇でしょ?勝手に話すね」

 僕はそもそも、この国或いは超人社会自体が歪んでいるんだから今の時代に真っ当な教育なんか通じるわけがないと思っていてね。
 例えば敵が出ればヒーローが来るまで眺めるだけで野次馬と化している市民や国民。例えば政治や団体やメディアが一緒になっていまだに民意をつくろうとしている世の中の仕組み。ひいては空気を読み過ぎ、他者を受け入れない日本人。実際には考える事を放棄して周りの意見に流されてるだけじゃないのか?
 学校での歴史の授業を例に取ってみようか。人類の誕生から始めて僕たちに身近で重要なはずの近代史は、なぜか三学期に駆け足で終わらせる。100年も経っていない首相の暗殺事件でさえ、教科書ではたったの数行でしか語られない。どんな背景があって、どんな思いがあって殺されたのか?本来はそういう事を学ぶべきじゃないのか?でも誰もおかしいとは思わない。なぜならそんな詰め込み式の教育でも、社会がそれなりに機能していたからだ。けれどもその歪みはアイデンティティの喪失として表れた。自分のルーツを曖昧にしか理解できていない子どもたちは自分に自信が持てなくなって、戦う事を恐れて、他人と同調するようになる。メディアに踊らされて、一方的な意見で物事を括りたがるのがその際たる例だよ。
 彼ら、或いは彼女達はいつの間にか個性を奪われて、誰かに依存しなければ生きていけない。そんな教育を受けて、平和ボケに漬かっている人間が無意識のうちに悪意だと感じない悪意で罪なんて犯してもいない穢れなき弱者を追い詰めているんだ。無個性だなんだ、犯罪者向けの個性だなんだ、ってね。きっと先生ならそういう光景に覚えがあるでしょう?

 更には家族という存在、これが実に学校教育以上に煩わしい。なぜなら親の教育や躾が人格形成に大きな影響を及ぼすにも関わらず、その親を自分で選ぶ事はできないからだ。つまり、人は生まれながらにして平等では決してありえないと言える。
 例えば家庭を省みない父親だった場合、普段子供と接していないせいで表面的な解決しか見出せない。だからそれがどうして正しいのか?悪いのか?という根源を教えられない。また愛情の注ぎ方を間違った母親の場合はどうか?肉体的にも精神的にも子供が傷つくような事は一切やらせない、触れさせない。全て事前に回避して子供の時に経験させておくべきことの一切をさせずに育てていく。本当の痛みも悲しみも苦しみも、恥をかくことさえも知らずに育った子供はどうなってしまうのか?他人の感情を推し量ることのできない、想像力の乏しい大人になっていく。
 その結果、責任を放棄しても構わない、現実から逃れても構わない、他人を傷付けても構わない。そんな自分本位に生きるモンスターになる。

「僕の言いたいことがわかる、先生?つまりはね、僕らみたいなモンスターを、敵を、生み出しているのは他でもない、この超常社会に生きる国民そのものだってことだよ。……それで、僕が生きているとまわりのみんなに迷惑がかかってまわりのみんなが不幸になるんだったら、僕は精一杯努力して、他人の不幸を喜べる人間にならなきゃね」

 健常者として生きるヒーローにはわからないことかもしれないけれど。は邪気などなさそうにぱっと笑って見せたけれども、その仄暗く光る鈍色の瞳は笑ってなどいなかった。ざわり、と玄野の背筋を冷たいものが走る。

「そうそう、こんな言葉もあるんだ、知ってる?『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』」
「……それ、前に窃野にも言ってやしたね、善悪の彼岸、でしたっけ?」
「えっなにそれ、さてはトウヤくんチクったな」

 そういえばと玄野が口にした内容に、途端むっと唇を尖らせたの瞳から、先程までの不気味さはすっかり薄れている。その様子にどこかほっとしてしまった自分に気づいてしまって、結局のところに振り回されていることを自覚した玄野は当人に気づかれないようにと小さくため息を吐く。どうしてこうも、儘ならないというのか。
 その時、ズズゥン、と地鳴りのように音が響いて、ぱらぱらと上から落ちてくるホコリやらコンクリートの破片やらを認め、玄野はふと天井を見上げた。想定していたよりも、不定期に襲う地鳴りが長い。オーバーホールは、廻は、きっと上の階を突き抜けて地上で戦っている。
 負ける筈がない。負けるわけがない。わかっている。彼は強い。信じている。けれども不安は拭えない。焦燥する気持ちがじわりじわりと胸中を占めていく。
 出会ってからずっとずっと長くの間、今まで自らの目で見てきた彼の姿がフィルム・ムービーのように瞼の裏に蘇る。これではまるで走馬灯のようだなんて馬鹿げた考えが脳裏に浮かんで、玄野はぐっと目を瞑った。

 終わりは、すぐそこだった。