世界は僕を歓迎しない



 「それ」を知ったのは、特別なことなどなにひとつとしてない或る日の満月の夜のことであった。

「……またですか、プラストミック」
「…………」

 彼女から返事が来ることはなかった。
 プラストミック、基は滅多に人目に晒される場所へと出てくることはなく平素は専ら地下の私室や作業場に籠っているけれども、夜になると決まって月の見える縁側の柱へと凭れ掛かった状態で朝を迎える。人間的思考や行動の一切を排除して、なにをするでもなく茫然自失したようにただ月を眺めるだけ。こういうときの彼女に声を掛けたとてなにひとつとして返ってくることはないけれども、そもそもが本当に聞こえていないのだ。まるで人形のようだ、と思ってしまう。のそんなところが私は嫌いで、同時に好ましいとすら思っているのだけれども実際にそれを口に出したことはないし今後出すようなこともないのだろうと思う。

「……ね、眠れないんだって」

 或る日に、沈痛な面持ちで綾がそう言ったときのことをよく覚えている。が不眠症なのだと知ったのはその時だ。が組長に拾われて一週間も経たずに判明した事実で、初めこそ慣れない場所で緊張でもしているものかと推論を立てていたこともあった。今となっては面影など微塵も残ってはいないけれども、出会った当初のはそれこそ野生の猫かのように周囲の人間を警戒し、蓑にするように組長の背後に隠れていたりするような子供であったからだ。けれども、布団に潜って目を瞑っても、絶対に意識を手放すことができないから、いつしか眠る努力をすることすら辞めたのだと言っていた。気絶でもしない限り自らの意思で眠ることも叶わず、十余年も毎日月を眺めて夜を明かしているの眠れぬ原因が何処に帰結しているかなどわからない。彼女が眠れないことに対して先入観や恐怖、ましてや不安を感じているようには決して思えないから精神生理性不眠症ではないようだった。けれども、彼女自身の持つ病質こそが不眠を誘発させている一因になっていることなど判りきっていた。

「……、不思議なもんでさ。眠ろうと目を瞑ると、個性が発現したときの親の表情を思い出すんだ。とっくに顔なんて忘れてると思ってたのに」

 月が消え太陽の昇始めた空に顔を向けたままが口を開く。が持つ両親の記憶は、彼女の個性の発現と同時に途切れていた。自分を捨てた人間の持つ個性を受け継いだ彼女はけれど、自らの個性を気に入っていると称している。単純明快の皮を被りつつも天邪鬼の気がある彼女が舌に乗せるそれが本音であるのか嘘であるのか目視での判別などつくはずもないし、知る術こそあるけれども基本的に治崎に当たりが強いはオーバーホールを若と崇める音本と反りが合わない。人は皆本性という弱音を隠していることを音本はその身を以てよく知っていたようだけれども、音本自身がに近づくことを好んではいないのだから弱音を引きずり出す真実吐きの個性はあてにできないものだった。

「忘れたいんですか」
「まさか。忘れないようにしてくれてるんでしょ、ありがたいってば」

 まあ、忘れたいと思ったとしても忘れさせてはくれないんだろうけど。そう吐き捨て自嘲するように口元を歪めたの目は虚ろだ。
 以前に、天蓋から一般的な精神病質について僅かばかり話を聞いたことがある。個人差こそあるけれどもその特徴のひとつとして、自ら嘘を吐き、いつの間にかその嘘を自分自身でも信じ込んでしまうのだという。が自らの個性について吐いた言葉が自身を守るための殻として吐いた嘘だというのであれば、その殻をこちらの一方的な感情で身勝手に壊していいはずがない。それは透明だけれども、おそろしく堅い殻だ。

「睡眠薬なんて効きもしないから、三日で使うのやめちゃった」

 睡眠薬の多くは国際条約上、乱用の危険性のある薬物に該当するものが殆どだけれども、それらの薬による睡眠とはあくまで比喩表現で、麻酔として使用された場合に意識消失を生じさせていることであり通常の睡眠段階や自然な周期的状態ではない。要するにこの種類の薬には一般的に抗不安作用から意識消失までの用量依存的な効果があり、鎮静薬、または催眠薬と称される。個性の影響かはたまた趣味の延長か、化学や医療薬品の製作に秀でているの技量を持ってしても薬の服用は徒爾にしかなっていないようだった。

「クロロホルムでも吸えば楽になれるかなって最初は思ったけど、組長に見つかってしこたま怒られた」
「それはそうでしょう」

 クロロホルム、系統名で言うところのトリクロロメタンは中枢神経に作用するためその特性を逆に利用し屡々麻酔剤として使用されてきた。一方で大量に吸入すると循環器系に対する抑制作用が強く、血圧降下や突然の心停止を引き起こし重篤な場合は死に至りさえする。日本では毒物及び劇物取締法の医薬用外劇物に指定され労働安全衛生法の第二類物質特別有機溶剤の規制も受けている危険な溶剤だ。
 一歩間違えば自殺志願者と思われても仕方がない。それを窘めた組長の行動は至って常識的なものであったろうし否定も糾弾もできはしないだろう。

「別にさあ、人生が退屈だとか苦痛だとか悲劇だとか言うつもりはないよ。僕は死にたがりなわけでもないし。人生は正解のないゲームで、なにをやっても間違いで、よかれと思って失敗して、相手のために動いては傷ついて、恩を仇で返されたり、助けたやつがその後人を殺したりして、それでも己の信じる道徳を貫けるかを試されているゲームだ」

 死にたがりなわけではない、だなんてどの口が言うのだろうか。けれども確かに、親に捨てられたの身を拾ったのは組長で、彼女を生かすと決めたのも組長だ。そうであればが自らの手で息を事切らすような馬鹿げた行為を、無駄に無益に命を散らすような馬鹿げた真似を、きっと組長は許しはしない。

「それでも人生がゲームじゃないのはリセットボタンがないからなんじゃなくて、そこにゲームオーバーがないからだよ」

 漸く凭れ掛かるのをやめたのか、「よっこいしょ」と些か年寄りめいた言葉を吐いて柱に背を預けたまま膝に手を置きずりずりと立ち上がったはひとつ息を吐き、くるりとこちらへ振り向く。先程までずっと虚ろであった瞳は未だ僅かに淀んではいたけれども、微かに反射する陽の光が確かに彼女が"正常な"状態であることを示していた。
当然ながら人生はゲームではないしゲームなんかではあり得ない。がシミュレーテッドリアリティまで発病しているようには見えないからそれはただの戯言であろうけれども、彼女が言うと何処か空想事ではないように聞こえてしまうから不思議なものだ。

「生きてるってことは、それだけで他人を傷つけるものなんだ。だったら僕は、せめて、なにかのために、誰かのために、誰かを傷つけたいって、そう思うよ」

 が誰かのために、と言うときはきっと組長のためであってそれ意外は決してあり得ない。彼女にとっては組長への恩義以外の事柄など瑣末と言っても差し支えのない程度の存在に過ぎないからだ。勿論彼女自身は人並みの義理人情も承知しているし身内への温情がないわけではないことも知っているし、一度身内と認めればそれなりにまともな対応を試みてくれることも判っている。けれども、やはりどこかで一度信じた相手に裏切られるのではないかという疑念と疑惑は絶えず心臓の裏側に張り付いていて、それが彼女を囲う透明な殻をより強固なものにしているのだろう。難儀な事だと一言で片付けるには現実はあまりにも杜撰で悲惨で残酷だ。
 は透明な殻に閉じ籠もって暮らし、自らの心を守り続ける。一度割れた殻は決して元には戻らないけれども、憎悪と執念を燃やして、彼女の瞳には何度でも爛々とした火が灯る。いっそ気色が悪いと嫌悪する程に躊躇いも見せずに。これはそういう女だった。大して勇ましくも強くもないというのに治崎に突っかかりその身を振りかざす彼女はまるで死に急ぎ野郎のようで、けれど胸のうちで何度も悪態づいたその言葉を彼女に向けて舌に乗せることなどできそうにもなかった。

「……おはようございやす、プラストミック」
「うん、おはよう、クロ」

 でも一先ず今舌に乗せるべき言葉は、嫌悪よりも悪態よりもなによりも朝の挨拶であったろう。
 そう思い口を開くと、私に挨拶を返したの髪は朝焼けに照らされべっこう飴のように金色に光っていて、相対するように彩度と明度の低い灰色の瞳もおよそまともな睡眠が取れていないとは到底思えぬ程、生命力が溢れるように燦々と輝いていた。