「クロはさ、正義ってなんだと思う?」
おおきなことからちいさなことまで、常にどこかへ好奇心の矛先を向けているの疑問は日々絶えない。深夜に突然ひとの部屋に訪ねてきたかと思えば、彼女が宣ったのはそんな戯言であった。いきなりなんですかと素直に零せば、いいから答えてと勝手知ったるように部屋の丸椅子に腰掛けたはあんまりな暴言を口にする。こちらは既に就寝の態勢だったというのに。がひとの話をまともに聞きやしないのは通常運転で、もはやため息も吐き損というものだった。
正義、だなんて。今では指定敵団体とまで言われている極道の人間が今更どの面下げて口にしているというのか。
「正義なんて、そりゃヒーローに決まってやす」
「それはこの超常社会から見た正義の象徴でしょ」
適当にあしらってしまおうと舌に乗せた言葉に納得しなかったらしいは唇を尖らせてあからさまに不機嫌な顔をしていた。けれども実際には怒っているわけでも機嫌が傾いでいるわけでもない。彼女にとっての感情とはポーズと同等だ。
「ヒーローが正義じゃなかったら、なんだって言うんですか」
「……そもそも、人はなにを以って正義と定めているのかな」
心底不思議そうに首を傾げられ、思わず先程飲み込んだはずのため息が口から漏れる。また始まってしまった。の悪癖その二、である。こうなってしまえばまだ暫くは眠れそうにない。後方に体重を乗せたことによって、腰掛けたベッドのスプリングが僅かに軋んだ。
「僕が感じる正義は普遍的なものじゃなくて、時代時代の社会によってその概念が作り上げられていくものだって思っているんだ」
たとえば、戦場の恐ろしさを知ってる?と問われ、無言で肩を竦めた。平素は稚気で学のなさを露骨に出しているというのに、こういうときばかり饒舌になる彼女の狡猾さはどうしたものか。
「それはね、正義という大義名分の下ありとあらゆることが許されてしまうことだよ」
平素であれば唾棄されるような行為が、国のためという正義の名の下ならば許される。どんなに卑劣な行為であっても、どんなに卑怯な行為であっても、誰を傷つけ、なにを奪うものであっても、それらは須らく許されるのだ。正義という言葉を借りれば許容されてしまうことのなんと多きことか。
戦争において、正義を翳した先にあるものは殺戮と憎悪と癒えない傷だ。正義は悪を裁くしかできない。そしてそれはある意味多数決の落とし穴にも似ていた。勝った方が正義なのだ。
けれどもそれを判断するのは当事者であるはずもなく、所詮は自己満足と自分の身の安全を保証するだけの正義が悪にも転ぶ。
正しいものに従うのは正しいことであり、最も強いものに従うのは必然のことだ。力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的だ。力のない正義が反対されるのは悪者が常に存在しているからで、正義のない力は往々にして非難される。したがって、正義と力とを一緒に置かなければならない。そのためには、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならない。
正義は屡々論議の種になるけれども、力は非常にはっきりしていて論議無用だ。そのため、人は正義に力を与えることができなかった。なぜなら、力が正義に反対して、正しいのは自分だ、と言ったからである。そうして人は、正しいものを強くすることができなかったために、強いものを正しいということにした。
「疑問を覚えずに生きられるのならそれは幸せなことだと思う。自分を疑わず信じ切れたら幸せなことだと思う。たとえそれが偽りだったとしても、信じて、信じきって、そう在れるっていうことはすっごく幸福なことだと思う。真実なんて、相対的なものなんだから」
滔々と演説に近い語り口でそこまで言ったは、椅子から立ち上がり仰々しく両腕を広げてみせた。まるで旧知の友人との再会を歓迎しているかのような穏やかさで。
「正義と悪の境界線が曖昧な現実の世界へようこそ」
「……海外ドラマの見過ぎじゃないですかね」
呆れたように言葉を返してみたけれども、のガラス玉のような瞳に射抜かれ、刹那に感じた悪寒にも似たなにかにざわりと胸の奥が騒ぎ立てる。この感覚も、未だ慣れてはくれないらしかった。覇気とは違う、そんなものとは比べようもない程に凶悪で、脆弱で、不快で、不可解だ。全くもって、気持ち悪い。
けれどもの言う真実の相対性というものをぼんやり考えて、それは正義も似たようなものだと思った。
ひとつではありえないし、ましてや唯一絶対のものでも決してありえない。けれども、多種多様であったとしても信じきることはひとつの真っすぐな意志であり、私にはそれが眩しく映った。それはきっと現代社会に於けるヒーローそのものだ。
「ねえクロ、僕はね。”最大多数の最大幸福”なんて心底くだらないと思っているんだ」
それはイギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが唱えた、『個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである』という考えだ。なによりも社会全体の幸福度を優先させ、民主主義的な個人の人権などは二の次であって、極論を言えば社会全体のためになるのであればなんの罪も犯してない人を殺すことが正義に成りえる。まるで今の超人社会の在り方そのものだ。
「『人間は動物より勝っているからこそ、言い換えれば人間は自己であり精神であるからこそ、絶望することができるのである』」
「キルケゴールとは、随分風刺が効いてやすね」
「『絶望を知らなければ希望もない』、これは割りと真理だと思ってるんだ。僕らみたいに社会に適応できず棄てられた人間をヴィランと虐げて、陥れた奴らはのうのうと一般人の皮を被って生きているなんて、皮肉だと思わない?」
死穢八斎會には、廻が集めた人材以外にも社会に適合できなかった人間が多い。中でもは、両親の個性を複合し引き継いだ彼女の個性を恐れた親に棄てられ、組長に身を拾われた人間だ。を棄てた親はきっと、今もなお素知らぬ顔をして表と裏の社会の狭間で生きている。
に限った話ではないけれども、こうして人のルーツを聞いたとき、屡々思うことがある。人は進化した生き物であるというけれども、人の叡智とは一体なんだろうか。
遥か昔、人は他のすべての生き物と同様の姿をしていたという。けれども遠くなるような時間の果て、人類の祖先はいくつもの選択を行い、その結果現在の姿に至り人としての地位を確立してきた。その進化しているはずの崇高な生き物である人の叡智が、同一の種族を殲滅するために使われている。
種族内での争いそのものは別段珍しいものではない。いかな動物にも必ずといっていいほど起こることである。ただし、他の動物の場合、それは種の生存というその種にとって究極である一つのものを目標としている。より良いものを残すために、自然界は弱きものを淘汰する。世界が存在を許すのは強きものだけで、弱きはその慈悲を乞うだけだ。自然界には理屈があり、そこに主観的な悪も正義も存在しない。
けれども、人の場合には随分と事情が異なる。種の保存などという生物としての長期的な理由は存在せず、主観的な正義と、主観的な正義、思想や主義、見目の違いでの殺し合いしかありえない。
そうした殺し合いで、何処へ向かうのだろう。人類の叡智とは、人類そのものの発展のために使われるべきではなかったのだろうか。
人がそれほど理性的であり、言葉を持ち、叡智を養い得る唯一の生命体だとして、ならばどうして、人間のみが己の好き嫌いという主観で殺し合いを引き起こすのだろうか。それが人という種族の発展のためであるとして、そうであるならば、発展とは、進歩とは、一体どのようなものを指すのだろうか。人こそが崇高な生き物であるのならば、なぜ、その崇高な生き物の行為がこれほど非論理的で、暴力的なのだろうか。
「僕たちがやろうとしていることは、悪しき社会を正しい方向へ導く行為だ。そしてあの『銃弾』は、啓蒙のための道具だよ、クロ」
そっと近づいて私の両の頬に手を寄せてくるの表情は至極穏やかで、彼女はまるで神の信託を受けた御子のようだと思ってしまった。そんなことは決してありえないというのに。
幼い夢を捨てて、過ぎていく時間の輪郭をそっと指先で撫でて、けれどなにもかもを棄てたわけではない。それは私に限らず、彼女も、オーバーホールも、この組に呼び寄せられた男たちも同じだ。たとえみずからに価値を見い出せなくなった人間であろうと意思はあるし意志もある。各々理想を叶えるために、或いは誰かを守るために、時には刃を携えなければならない。それを躊躇うか躊躇わないか。躊躇わずに人を傷つけ守ることのできるもの、それが強さか正義か、そんなものはわからない。これからゆっくりと暗く深い沼に嵌っていく過程で、理解しようと思う必要性もないのだろう。
底なし沼だ、黒く、きらびやかな、まるで不思議な引力を持つ瞳のような。