「クロ」
「……またですか、プラストミック」
ずるりずるりとどう見ても重量感のある大きな麻袋をさして重たそうにするでもなく片手で引き摺って、プラストミック、もといはへらへらと緩い笑みを浮かべている。その顔の右半分には赤黒い液体が顔の下半分を覆っているペストマスクにもべったりと付着していて、彼女が珍しく返り血を浴びてきたことを伝えてきた。本来なら上は白一色であったはずの作業服も、元の色など判別できない程に薄汚れている。
「お風呂って沸いてる?髪も血でパリパリしてるから流したいんだけどさ」
「今はオーバーホールが入ってやす」
「えぇ、また?あいつしずかちゃんなの?あの超潔癖どうにかならないの?そんなに汚れるのが嫌ならいっそ外出しないで無菌室にでも入ってればいいと思わない?ねえクロもそう思わない?」
「それは本人に言ってくださいよ」
「えぇ、やだよ、言ったら解体されちゃう」
どうせ治すくせに解体すのやめてほしいよね、短気は損気っていうんだよ、なんて言いながら処置無しといわんばかりに掌を肩の高さに上げて仰々しく竦めてみせると、かぱりと血に汚れたペストマスクを外して、もう一方の手で麻袋を目前に掲げるように持ち上げた。歪に膨らんだ袋の中身など、聞くまでもなくわかりきっている。暇をもて余している彼女の悪癖だ。
「まだ水槽って余ってたっけ?これ入れたいんだけどさ」
「……またオーバーホールに怒られても知りやせんからね」
「今日はね、オープンテラスのカフェで会った、白いシャツワンピースの似合うすっごくかわいいお姉さんだよ」
さくっと注射して袋に詰めてたらね、路地でサラリーマンっぽいスーツのおじさんに声掛けられて咄嗟に殺しちゃってさ、この返り血そのおじさんのやつなんだ、なんてけたけたと笑っているは、こちらの話など聞いてやしない。どうせいつものことではあるけれど、と思いながらも僅かにため息を吐いてしまったのは仕方のないことであったろう。
エンバーミングマニアの彼女は、専らみずからの"個性"を用いて死体を処理して保存する。
彼女の"個性"は【プラスティネーション】。文字通り人間や動物の身体や組織細胞を破壊することなくプラスチックへと置換して加工する能力だ。彼女が触れた生物は一切の選別なく標本化される。勿論、個性発動中は自分も相手も静止した状態であることが条件であったり、一度個性を使うと半日のインターバルを要することであったり、面倒な制約は多いけれども、死体処理に於いて彼女の個性の有用性が非常に高いことは事実であった。
そもそも本来であればプラスティネーションの工程には、組成を固定させるために遺体をホルマリン溶液に浸す段階で一週間、組成を崩さないよう何度かに分け遺体をアセトンに浸すのに一週間、液体合成樹脂を遺体に染み込ませるのに一週間、樹脂に硬化剤を加えて二週間、組織に樹脂を浸透させるために遺体を真空圧に掛けるのに一ヶ月、そして水ガラスもとい珪酸ナトリウムを吹き付けながら遺体を乾燥させるのに約三日……と、二ヶ月以上の膨大な時間を要する。
その過程を凡そ一日足らずで完成させ、更には頭蓋骨を切断して花を生けたり肋骨のみを取り除いて人の形を作ったり腕や首を切り落として剥いだ皮に引っ掛けたりして、本人曰くの『作品』に仕上げる彼女の"個性"と技術には末恐ろしいものを感じる。訊けばどうやらネクロフィリアというわけではないらしいけれども、正直なところ説得力は微塵もなかった。
「……いい加減、人を拐ってはオブジェにして部屋に飾る趣味、どうにかした方がいいと思いやすよ」
以前に偶然、の部屋内部を目の当たりにしたことがある。人体の原型を留めない程に加工された人間標本が幾つも並べられていて、あの空間に長時間居たら確実に気が狂うと思った。もし警察に家宅捜索をされたら一発アウトの案件だ。しかし辞めろと嗜めたところで彼女が言うことを聞くとも思わない。実際、痺れを切らしたオーバーホールに何度か標本を破壊されているらしく大層揉めていた。
他人の感性をとやかく言うつもりはないし、『銃弾』を完成させるために組長のお嬢さんをモルモットにしている私もひとのことはやいやい言えないけれども、彼女は死穢八斎會の中でもすこしばかり、倫理観に於いて常軌を逸している。
「えぇ、なんで?きれいなものをきれいなまま保って、どうせならもっと芸術的に飾っておきたいって思うのって、すっごく素敵なことだと思わない?ねえクロはそう思わない?」
「思いません。同意を求めんでくださいよ」
「なんで?クロの個性だって似たようなものなのに」
べしゃりと麻袋を床に捨て置き、拗ねたように唇を尖らせながら近づいてくる。距離を詰めると途端に鉄臭さがつんと鼻腔を刺して、自然と眉間に皺が寄る。
「似てませんよ、全く」
「えぇ?そうかな」
顎に人差し指を当て思案するように首を傾げるの様子はまるで算数のテストを解く小学生のようにあどけない。けれどもその論点に稚さは微塵も感じられず、再度ため息を吐いた。
「……うん、でも、そうだな、僕は」
気づけばぬっと伸びてきた手が私のペストマスクに掛かって、ガポ、と抵抗する間もなく外された。先程よりダイレクトに鼻を刺す、噎せ返るような血の臭い。外したマスクを左手に持って、空いた右手を再度こちらに伸ばしてきた。
するりと矢印を象った髪を撫でて、流れるように私の頬に手を滑らせるの目は爛々と鈍色に光っている。その色素の薄い目と視線を合わせた途端、身体の自由を奪われるような感覚をおぼえて、ざわりと背筋が粟立った。
「クロのことも、きれいなままで保存しておきたいなって、思うよ」
くるりと透き通ったガラス玉のような目に見つめられて、その瞳に自分の顔が反射しているさまを認め、些か気持ちが悪いと感じてしまった。それでもその気持ち悪さに付き合っているのは少なくとも自身には利用価値が十二分にあることと、もうひとつ、私の中で彼女のことを計りかねているからだ。
気持ちが悪い、残酷な程に無邪気な悪意を持った彼女の存在を。そんな彼女の存在に多少なりとも動揺させられている自分のことを。けれどあまりにも掴めない彼女について思考を巡らすことさえ放棄し始めているのも、また事実であった。いくら考えても、わからないものはわからない。世の中は『そういうふうに』出来ている。
そして今、私は明確に畏怖を感じている。言い表しようのない不快感をおぼえている、その感覚に動揺している。
けれどもう一方で、胸の奥底でざわめいた高揚感にも似たそれに口端が僅かに吊り上がったのもまたわかって、頬に寄せられたの手にみずからのそれを重ね、ゆっくりと膝を折った。