※よそのこしかいません

幸福が帰る



 青いバラが珍しくて、そして彼女にはこれが似合うだろうとか、ただスズランを買いに来ただけだというのに常義は輪をかけて喧しい。そもそもそんなに珍しいもの、(しかも常義が指したのは鮮やかなプリザーブドフラワーだった)高価に決まっている。あれやこれや、花屋のショーケースに目移りする常義を後ろに従えて、は「スズランの花束をください」と言った。

 妙な豆知識ばかり仕入れてくるのは常義で、彼女がどこからか拾ってくるあれやそれやはなんだか人生に於いておおよそ必要でないような知識ばかりであった。たとえばそれは、フランスでは五月の始めの日、日頃お世話になっている人へスズランを贈るのだというような話。けれどもここは間違いなく極東の島国日本であった。優雅な気品漂うロココ調の宮殿がそびえる街ではなく、彼ら、或いは彼女らが住みついたのは堅牢な門を構えた極道の屋敷だ。なにが悲しくてこんなにも美しくない街で、遥か彼方西洋の風習を準えているのか。
 こんな時ばかり末っ子ぶる常義の悪癖は、平生端々で子どものような扱いを受けるに束の間の姉気分を満喫させてくれる。なんだかんだと「多少の」わがままは許してしまえるのだ。「スズランだけですか?」「ああはい、あ、もういいです、そのへんのやつ二、三本、束ねてくれれば」活けられた小さな花々を見てそう答えた。背中に非難の視線を感じたけれども黙殺する。「かしこまりました」店員がと、恐らくその後ろで大変に不満げな顔をしているだろう常義を見比べて、笑った。

「もうなんなの、すっっごくさみしいじゃん!」

 会計を済ませて店を出るなり常義が吠えた。の注文通り、白いスズランは三本だけ、常義の手の中で揺れている。

「気持ちの問題でしょ」
「そんなこと言ったって、もうちょっと、もうちょっとなんか、あるでしょう」

 寂しいスズランを握り締めて歩く常義は、屋敷へ帰るまで黙りこくったままのの背中に、「もうちょっとなんかあるでしょう」、呪文のようにそう繰り返していた。
 感謝など形にせずとも言葉で伝えてしまえばよいのだ。金もかからないし、伝わりやすい。
 けれども単純明快の皮を被りつつも天の邪鬼な気があって、マイナスはそれとしてプラスの感情を素直に表に出すことを決して容易いと言えないにとっては常義の提案もきらめく妙案だった。気体となって体内を流動する感情を、液体はおろか個体にすることさえ難しい。両親に捨てられてからというものずっと、透明だけれども恐ろしく堅い殻の中では暮らしている。誰も入らないし、出ていかない。ただ強く叩いて叩いて、十数年をかけて皹の入ったその殻の隙間から「ただいま、綾!」「えっ、なにそれ」「スズランあげる!」「急になに、どうしたの?大丈夫?」「ひどい!」沁み込む、痛々しいくらいの常義の優しさに便乗して、

「いつもありがとうの気持ちなんだよ、綾」
「そう、僕と、コーギーちゃんから」

 母の日じゃないんだね、とわざとらしくボケて笑う彼女やを取り巻くひとたちに、ひた隠しにしたことばを言える日というのは、そう遠くはないのだろう。