狼は眠らない夢を見る



「しずかちゃんってさあ、美的センスクソだよね」

 びしり。瞬時に空気が凍り付いたのを、部屋にいた全員が感じていた。言い放った当のは我関せずといった様子でオーバーホール基治崎に手渡されたペストマスクを手の中でぐるぐると回しながら観察している。白と、竜胆色。が主に着ているケーシーのような作業服に酷似したそのカラーリングは他の構成員のマスクにはない発色で一際異彩を放っているように見えた。
 しかしながら、とクロノスタシス基玄野は内心ダラダラと冷や汗を流す。ただでさえ樹と治崎は馬が合わないというのに、が自覚の上で作為的にわざと治崎を煽っているのだからもはや手に負えない。自由人というレベルでは済まされないの奔放さは今に始まったことではないけれども、聞いているこちらがヒヤリとさせられる場面は両手両足を使っても収まらない。
 マスクの中で視線だけを動かし治崎に目を遣ると額に青筋こそ浮かべているものの手を出すつもりはないらしかった。まともに取り合ったところでの腕が吹っ飛ぶのと治崎の血管が切れるのとどちらが速いかという全く生産性も意味もないデス・レースを繰り広げるに決まっている。逐一キレていたらキリがないとわかっているからだろう。至極懸命な判断であった。

「こういうミステリアスでパンクなのがカッコイイ!って思うタイプだったっけ?モッサモサの芋系田舎出身の男子が上京して間違った高校デビューしちゃいました、って感じすんね、ウケる」
「意味のわからない例え話をするな。それとお前にだけは言われたくはない」
「ていうかこれなに?まさか僕にこんなセンス悪い被り物着けろって言うんじゃないよね?」
「わかっているなら訊くな」
「あんなに除菌に躍起なくせして脳みそに蛆でも飼ってんの?話聞いてた?聞こえなかったならもう一回ゆっくり言ってあげようか?こんな、センスの、悪いやつを、僕に、着けろって???」
「蛆は飼っていない。同じことを何度も訊くんじゃない」
「まじかよコイツ」

 頭イカれてるでしょ、と口いっぱいに詰め込んだ苦虫を噛み潰したような表情で吐き出された言葉に、その場にいた殆どが「お前が言うな」と思ったことをエンパスの個性保持者でもなければサイコメトラーでもないが知るよしもない。サイコメトリーとエンパスを縮めたらサイコパスになるよな、と窃野は脳裏でぼんやり考えた。
 そもそもがおよそまともな人間であればこんな組織に身を置くわけがないのだけれども、個性が発現した年齢から成人間近の今に至るまで死穢八斎會という環境の中で育ってきた樹に対して世間的な一般倫理を問うのは些か艱難辛苦な無理難題であった。

「ていうかこれ革だよね?すっごい蒸れそうなんだけど暑くないの?夏場とか縫い目にカビ生えそう」

 依然として苦々しい表情でペストマスクを眺めるはなんとしても着用を拒否したいらしかった。根本的な問題として本来であれば組長派であって治崎の部下でもなんでもないがマスクを被る道理も義理もないのだけれども、組長が実権を握っていない今現在、若頭という地位の治崎が組長に代わって組を動かさんとしているのであれば、それが命とあらば、少なくとも聞く義務はあるということになるのだろう。

「そのあたりは自分で管理しろ。間違っても綾に任せたりするんじゃないぞ」

 彼女をバイオバンクとして扱っているやつがどの面下げて言ってんだ、とはよっぽど言ってやろうかと思った。それでも口に出さなかったのは、綾も今の治崎に対して殆ど諦念の意を抱いているからだろうか。単純に個性を行使しての直接戦闘で治崎に勝つということは決して容易ではない。綾やのように、戦闘に特化しているわけではない個性なら尚更だ。飛び掛かったところで瞬時に破壊されることは目に見えている。
 血は繋がってこそいないけれども、確かに家族だったはずなのに。そう思っていたのはこちらだけで、治崎は最初からのことも綾のことも、利用するつもりしかなかったというのだろうか。組の名を世に知らしめるための道具に過ぎなかったというのだろうか。真意も真実もわからないけれども、少なくとも現状自らが置かれている立場を鑑みると、そう思えてきてしまうのも仕方がないと言えた。
 どこから間違えていたのだろう、なんて、今更どうしようもないことを一瞬考えて、そんな考えを振り払うようには強く首を振った。

「……言っておくけど僕、お前から仕事は受け取らないからね。好きに動く」

 が壊理と接触することを治崎はひどく嫌うけれども、それ以外のことであれば恐らく口を出されることはないだろう。元々お互いに興味も関心も持ってなどいなかった。の個性も治崎の思想を脅かすものには到底及ばない。どうでもいいと思っているなら、脅威にすらならないなら、どうせなら全て放っておいてくれ、とすら思った。言うことを聞かない犬に対してでも、念のためにと手綱を拵えておくことに損はないということだろうか。その綱をの首輪に繋ぐのはきっと治崎ではないし、繋がれた綱をが躊躇いもなく噛み千切ることは目に見えているけれども。

「組長の迷惑になるようなことはするなよ」

 そう吐き捨てられた言葉に、思わずキレ掛かりそうになってしまってぐっと堪える。こういうときは、頭に血を上らせたら負けだということをはよく知っていた。落ち着け、落ち着け。深呼吸にも似た長い溜め息をひとつ吐く。治崎の言葉には曖昧に頷いて、これ以上話すことはないとばかりに部屋を出た。

 どの口が言ってるんだよ、組長に手を掛けた張本人のくせに。
 何度も何度も出そうとしては飲み込んだ言葉だ。
 組長に対して「大きくなったら修復するよ」と思っている治崎は、大きくなり修復した時に認めてもらえると思っている治崎は、実のところ誰よりも何よりも子供に見える。それをわかっているのも、もしかしたら自分一人だけなのではないだろうか、と思うときがある。どいつもこいつも、治崎の持つカリスマ性に騙されて欺かれて盲信へと誘導されていることに気づいてはいないのだ。信仰や盲信というものは、する側はさぞ気持ちの良いことだろう。自分で悩むことなく苦心することなくどこかには必ず導いてもらえるからだ。それが正しくても正しくなくても、己の望んだかたちとは少し違うものでも。そもそもかたちが違うということに気づくこともないのかもしれない。思考力を手放した人間はもはやただの葦だ。彼らがそのことに気づくことも、きっと最期までないのだろうけれども。

 打ちっ放しのコンクリートに囲まれた薄暗い廊下をひとりで進みながら鼻を啜る。未来が見えない。ビジョンが浮かばない。
 終わりが近いのだと、痛いほどに思い知らされる。