君の、或いは僕の過ち



「――ルネ・デカルトは、決断ができない人間は欲望が大きすぎるか、悟性が足りないんだと言ったんだそうだよ」
「……何が言いたい」

 敵連合の死柄木が帰った直後、へらへらと弛い笑顔を貼り付け悠々とした様子で応接間に入ってきたプラストミックが放ったのはそんな言葉であった。
 基本的にというか往々にしてというか、こいつの話は脈略の無いものが殆どで、それは相手にするだけ時間の無駄であることはわかっているけれども、無視をすれば後々面倒なことになるのもわかっている。実際、以前に会話を拒んだら当てつけのように壊理へ絡みに行っていたので思わず”破壊”してしまったことがあった。俺が嫌がるとわかっていてわざとやっているのだから質が悪い。
 けれども『銃弾』の開発にの持つ知識や技術が役立つのは事実で、ヒト細胞の基底状態維持培養のメカニズムを利用して壊理の身体から離れた個性因子の効果を維持する方法を考え出したのはこいつだ。デメリットもあるがメリットが小さいとは決して言えない、安易に手放せるような人材ではない。狡猾なこいつのことだ、きっとそれも重々理解しているのだろう。仮に"破壊"されても"修復"もしてもらえると確信を得ているに違いない。

「いや?別に。ただ、デカルトの説いた話が事実なら、しずかちゃ……、あー、ごめんて、オーバーホールの欲望は主観的にどの程度の大きさなんだろうと思ってね」

 先程まで死柄木が座っていたソファに腰を下ろして俺を見据えるの目はガラス玉のように景色を反射している。俺たちのことを見ているようでその実見ていない、人間も景色と押し並べて同等のものとしか見ていない、そんな色をしていた。
 こいつは度々執拗に俺のことを「しずかちゃん」などとふざけたあだ名で呼ぶ。潔癖の質があるため外出した際には必ず風呂へ入る俺を揶揄しているのだ。全くもって舐めている。
 "破壊"してやろうかと左手を動かすと途端に降参するように両手を上げて訂正したけれども、その形だけの謝罪に心など籠もっていないし悪いとは微塵も思っていない。熟舐めている。

「……俺は俺の事を欲張りだと思ったことはない。組長に恩を返すためにやっているだけだ」
「うん、当たり前のことが当たり前に行われる世界、そういうのは僕も好きだよ。『銃弾』の研究だって、時代が時代ならノーベル賞でも取れるんじゃない?知らないけど」

 へらりと八重歯を覗かせ笑うの言葉は黙殺した。ノーベル賞だなんだと他人に俺の崇高な研究の価値など推し量られて堪るものか。
 研究そのものに於いて俺にとって重要なのは、明確な理論とデータだった。正しいか正しくないかは理論とデータ、つまり客観的な事実が示すものであって、主観的なものではなかった。尤も、なにもかもが客観的な基準をもとに判断できるものではないことくらい理解していたし、主観的であるからと言ってそれが間違っているとは思わなかった。倫理も道徳もわかっていた。そしてそのうえで、幸せなどというものは個々人によって異なると知っていた。だから、あるものの存在をそんな主観的な判断で変わるようなもので否定も肯定もしたくなかった。そんな雑な理論に興味はなかったし、なによりもそのような感情的な善し悪しがくだらない殺し合いを生むのだと思っていたからだ。幸せにするかしないかは、それとは別の問題だ。

「僕から言わせれば、今の超人社会は人間不平等起源論そのものだよ。……まあ、僕たちがやろうとしていることも、ある種の悪平等かもしれないけどね」

 人間不平等起源論とは、フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの著作だ。ルソーは人間の本性を赤裸々に暴き、その本性を歪めてきた時代と事物の進歩のあとを辿り人為の人と自然人を比較することによって、人為の人の所謂進歩改良の中にこそその不幸の真の原因があることを示している。
 一方悪平等とは、平等に扱うこと、平等を重視する政策等が向上心の減退や逆差別等を生み却って社会に弊害を齎すことをいう。個性を持った英雄気取りの病人どもが蔓延した社会にとっては、確かに『銃弾』を啓蒙の道具として俺たちがやろうとしていることは悪平等を生むのかもしれない、けれどもそれが悪いことだとは思わない。むしろ『銃弾』に拠る悪平等をヒーローサイドの病人どもが理解することで『血清』の存在が価値を持つ。そして死穢八斎會が市場を支配し裏から社会を牛耳ることで初めて、俺は組長に恩を返せるのだ。

「"個性"なんてものが備わっているから精神に疾患を抱える、夢見がちな病人どもの酔いを醒まさせてやるんだ」

 例えるならば、酔い、まさにそれだ。それは甘美で、想像を絶する極上の舌触り、神の雫と謳われるどのような赤の液体も、バッカスでさえこの深みには敵わないだろう。正義という名の美酒に酔ってしまえたなら、苦いものを感じずにここに在れたのだろうか。周囲が心地よく酔う中、アルコールが頭に回らないでいるような感覚、靄に霞んで見えなくなってしまえば心地良いものが、鮮明な映像として目に焼きつく。ひとり取り残されるような、熱狂の渦の中にありながら、ひとりだけ、思考回路が妙に冷えていく。
 斜に構えて穿ったものの見方がしたいわけではない。そんなものではない。ひとり残されることのなにが嬉しいというのだろうか。周囲の人がすべてそれを黒だと叫ぶ中、自分ひとりにそれが白に見えるからといってどうだというのだ。仮に自分の目が正しくて他人のそれが間違っていたとしても、全世界が黒だというのであれば、黒に見えたいと望むことは極めて自然なことであるのではないだろうか。
 どこぞの科学者が書いた論文で読んだ進化論やら自然淘汰の話を思い出すと、俺はいつも疑問を抱き違和感を覚える。俺や社会の人間が持ち得るこの能力は、知識は、技術は、一体誰の為、なにの為のものなのだろうか。いや、むしろ問われるべき問いは、「人とは誰か」だろうか。"個性"を人の発展のため、人のために使われるべき能力だという前提を否定する者は今のヒーロー飽和社会には誰もいない。自分が何者かになれると思い込んでいる。それが精神に疾患を抱えるそもそもの原因だというのに。
 結局のところ、人間というのは不平等だ。
 個々の個性というものは個人差というもので説明がつく。人類皆平等だとか夢物語はどこにも存在なんてしない。そもそもそんなもの夢ですらない、地獄のようで、崩れ落ちた社会主義だ。幸も不幸も平等に訪れるなんて誰がそんな馬鹿みたいな理想論を信じているというのだ。幸も不幸も平等に訪れたのならば、それはもう不幸な人生である。誰だって不幸な記憶の方が圧倒的に心の奥底に残りやすいのだ。

「しずかちゃんは……廻くんはさあ、寂しいんだよね」

 腿に肘を乗せて頬杖をついたがぽつりと呟く。舌に乗せられた言葉は不可解極まりないものだった。

「……何が言いたい」
「家族は欲しかった、だけど手に入らなかった、組長に拾われて、仮初と言えど家族みたいにしてもらって、だから拾ってくれた恩義を返したくて、計画を企てたけど認めてもらえなかった」
「……黙れ」
「自分の考えを認めてもらえないことは自分の存在そのものを否定されている気分になるでしょう?自分が生きている理由や意義を疑いそうになるでしょう?机上の空論なんかじゃないことを証明したかった、認めて欲しかった、だから組長に手を掛けた」
「黙れ」
「組長の言ったことに対して理想論だって否定的な意見を持っているのに、組長に報いる事が自分の存在意義みたいにすり替わってる。でも廻くん、考えてみて。仮に計画が軌道に乗ったとして、組長を修復して、それで認めてもらえるとでも思ってる?だって廻くんは、組長に自分を否定されるのが怖くて逃げただけだ」
「黙れ!!」

 バツン、と神経と肉の千切れる音がした。次いで床にべしゃりと生々しい音を立てて血飛沫が撒き散る。の右腕が吹き飛んだのだ。身体全てを破壊したつもりだったけれども、煩わしいことにどうやら避けたらしかった。は顔に飛び散った自らの血液を気にすることも吹き飛んだ肩を抑えることも痛がる素振りをすることもなく無表情で俺を見据えている。あのガラス玉のようにくるりとした忌々しい瞳で。気色が悪い、気持ちが悪い。破壊するために使った左手には蕁麻疹ができている。
 お前になにがわかると言うのだ。親に捨てられ、組長に拾われ、恩義を感じていないわけではないだろうに、それでも尚奔放な振る舞いで罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯しなにもかもやりたい放題のお前に、俺の、組長の、なにがわかると言うのだ。

「……やり場のない憎しみって続かないものなんだよ。少なくとも僕はそうだった。親に捨てられて、食べるものも帰る家もなくて、それでも僕には生きるって選択肢しかなかった。なんでかわかんないけど、ただどうしようもなく生きたいと思ったんだ」

 もしかしたら、そのとき僕は既に狂っていたのかもしれない、と零すの表情は依然掻き消されたように無であった。瞳の灰色は濁った泥のように澱んでいる。

「あのままじゃ死んでたのは事実だし、拾ってくれた恩を返したいのは僕も一緒だよ。……でも、組長に手を掛けたことは絶対に許さないし僕は認めない」

 そう吐き捨てて血塗れのソファに乗り上げて跨ぎ、は部屋を出ていった。の去った応接間は空気が凍り付いたように静まり返っている。部屋に充満する鉄臭さにひとつ咳を落とし、「……クロノ、部屋の掃除しておけ」とだけ言い放って俺は足早に部屋を出た。延びる廊下の先にの姿は既にない。廊下を邁進しながら俺は考える。
 こうして引っ掻き回されるのは初めてではない、だというのにこうして翻弄されている、それを頭の片隅では気づき、理解しているのに認めるのは癪だった。捨てきったと思っていた幼さを認めるのが嫌なのか、それとも別の感情が俺を邪魔しているのか。見放された、と安直な言葉にして口から出してしまえば俺はきっと俺ではいられなくなるだろう。どうしてこうもままならないというのか。
 わけもわからず心臓が痛む。ぐっと胸のあたりを掌で掴んでみても、その痛みは深く刺さった鋭い棘かのように正体がわからない。腹の奥底に蛇がいる、そう思った。蛇がとぐろを巻くように、胃から食道へと巡り黒々とした感情が喉の奥底から吐出されている。不快で、不可解で、異常なほどに気色の悪い感情が渦巻いて、腹の奥底にドロドロとコールタールが溜まっていくようにも思えた。この感情は一体なんだというのか。

 俺がこの気持ちにつく名前を漸く知るのは、この後に訪れるすべてを取り戻せなくなったときの話だ。