両手広げて待っていて



 こども欲しいねん。男の子と女の子、一人ずつ。ほんでな、仕事で疲れて帰ってきても、その子ら見て、疲れ吹っ飛ぶねん。なあ、俺とな。夫婦、なってくれへんか。

 式の前夜、彼からプロポーズを受けた日の夢を見た。
 外はまだ明け方にも遠いらしく深く暗い。暑いからと窓を開けていたというのにふたりとも毛布を被っていて、雨が降っていたのかすこし肌寒かった。ベッドから下りて窓を閉める時、僅かにゲオスミンの匂いが鼻腔を刺す。明日は晴れるといいけどなあ、という私のひとりごとがぼてりと窓の桟に落っこちた。

「……起きてるん?」
「目ぇ覚めた」
「やんなぁ、俺も」

 もぞりとおおきな身体を捩らせて、窓際に佇む私を見た太志郎くんがわたしの顔の倍以上はあるおおきな掌でぽふぽふと枕を叩き、早く戻れと示してきた。急かさなくてもちゃんと戻るのに、関西人の血がそうさせているのか、彼は意外とせっかちさんだ。

「明日……や、もう今日か」
「うん」
「俺、泣くかもしれん」
「……はは、兄ちゃんとおんなじこと言ってる」
「切島くんは号泣するやろなぁ。環とかも、密かに泣いてるんちゃう」
「ええ、環先輩は泣かないでしょう、お茶子ちゃんとかミリオ先輩とかさ」
「ああ、せやんな、ありえるわ」

 うんうんと大袈裟に頷く太志郎くんが投げ出していた腕をすこし避けてベッドの中に戻った。窓を閉めたから先程までのような肌を走る寒さは消え去っていたけれども、今度は日本の雨期独特の湿度が肌に纏わりついているような心地がする。

 彼と出会ったことは私にとっては奇跡のようなもので、それこそ兄ちゃんが太志郎くんと出会わなければ一生会話をすることも、ましてや出会うこともなかった。彼と初めて出会ったのは、兄ちゃんが太志郎くんと環先輩との食事に連れていってくれたときのことだ。

『えっ切島くんの妹?ごっつかわええなぁ』
『ナンパせんでくださいよ、ファット』
『ちゃうわ!あほか!』

 初見がいつもの可愛らしい丸っこいフォルムではなく脂肪を燃やした後の姿だったものだから、私の脳内では彼とファットガムとが繋がらず、身長がすごい高くて金髪でちゃらちゃらしていて、ヤンキーだこのひと、なんて思ったこともあったけれども。太志郎くんも兄弟がいるらしくとても面倒見がよくて、ヒーローとして忙しい身であろうに何度も遊びや食事に連れて行ってくれた。関西人らしい陽気で明朗快活な性格に、ユニークなユーモアのセンスもある。好きにならないほうが、おかしい。

「最初会ったとき、負けん気強くて、ああ、強い子やなあって思った」
「うそ、私太志郎くんのことすごい怖かった」
「うそやん!?ホンマか……まあこのガタイで金髪やしなぁ……」
「……ほんと、いつ好きになったんだろ、なんかいつの間にかドキドキしてたんだよねえ」
「俺はお前の元彼に会った時に自覚したわ、」
「え……ああ、えっすごい昔じゃん!」
「ええっそこ!?」

 あれは太志郎くんと食事に行く約束をして駅で待ち合わせをしていたときのことで、たまたま中学の時付き合っていたやつに会って些かしつこいぐらいに絡まれた。そこで太志郎くんが「兄ちゃん、彼女になんか用かいな?」と颯爽と助けに来てくれて、その体躯と威圧感に元彼はすっかり萎縮して逃げるように去っていった。あの時はびっくりして正直すこし泣きそうになってしまったけれども、太志郎くん曰く、太志郎くんが一番びびっていたらしい。ああいった種類のいざこざに巻き込まれても太志郎くんのヒーロー活動に影響を及ぼさないのは、ひとえに彼の脂肪燃焼時の姿が企業秘密のようなもので世間からの認知度が頗る低いからに他ならない。活動拠点の大阪でもどうやらそれは変わらないらしかった。"ファット"していない彼に街中で声を掛けるのはよっぽど彼を学生時代から知る同窓生か近所のお年寄りくらいのものだ。

「付き合うことになった時、俺、切島くんに殴られると思ってん。せやけど、普通に笑顔で、あいつは寂しがり屋だから、ちゃんと構ってやってください、って言われたとき、泣きそうになってん……ていうか泣いた……」
「そうなの、私、喧嘩したらすぐ兄ちゃんとこ言いに来いよって言われた。代わりに怒ってやるって」
「……喧嘩なあ、結構してるなぁ」
「これからもするんだろうねえ」

 一番大きかった喧嘩は、太志郎くんが女の人と歩いたのを偶然目撃してしまった私が、そっか浮気か、とそのときは介入していく余裕もあるはずがなくああもう別れるんだと漠然と思い荷造りをして、新しい部屋が決まるまで兄ちゃんの家にお世話になろうかと思案していた時のことだ。太志郎くんに今までにないくらいものすごく怒られて、なんでなにひとつ悪いことをしていないはずの私が怒られなければいけないんだとブチギレて仮にもプロヒーローの顔を一発殴って、纏めていた荷物も持たず出て行った。兄ちゃんの家だとすぐ連れ戻しに来られてしまうからと思い転がり込むようにミリオ先輩の家にお邪魔したのだった。今思えば先輩には多大な迷惑をかけてしまっていたのだけれども、それでも先輩は文句ひとつ言わずに私の話を聞いてくれた。

「私、太志郎くんがあの時来てくれてなかったら、たぶんミリオ先輩と結婚してた」
「やめてーやホンマに……そういうん……」
「だってミリオ先輩優しいしよく気が利くし、太志郎くんみたいに食費掛からなそうだし」
「ホンマアカンで、ファットさん怒るで」

 曲がりなりにも式の前夜にこんなこと言い合う夫婦はどれくらいいるのだろう。たぶん、きっとどこにもいないだろう。いつも周りは私が太志郎くんを支えているだとか私の包容力が大きいから助けているだとかそういうことを言うけれども、本当は違う、むしろ逆だ。太志郎くんから与えられる身体よりも大きな愛と、面倒見の良さと、それから、子供っぽくやきもちを妬いてくれるところに、いつだって助けられている。
 結局、太志郎くんと共にいた女性というのは彼の妹だったというなんともベタなオチだったけれども、彼からプロポーズを受けたのはその直後だ。私ももう結婚を意識する歳で、太志郎くんも同じくもう良い歳で、両親も歳で、私にはありとあらゆる意味で太志郎くんしかいなくて、周囲はどんどん私を置いて結婚していって、次はあんたの番だねと言われるたびに本人にそんなつもりは微塵もないのだろうけれども卑屈な気分になってしまって、機会を見計らっては幾度となく切り出そうとしたけれども終ぞ言うことの出来ないままでいた微妙な話題だった。この関係性をひょっとしたら危うくしてしまうかもしれないその言葉をけれど太志郎くんはいとも簡単に舌に乗せてみせた。たぶん、私と同じように彼の胸のなかにもずっと沈殿していたのだ。一人で抱えるにはあまりに重く、二人で共有するにはひどく甘やかなそれが。

「……あー、あーどうしよう、泣きそう」
「なんでやねん、お前の中になにが起こってんねん今」
「うわーもーやばい太志郎くんやばいって」
「あーあーもー、」

 太志郎くんのおおきな体に包まれる。私が誕生日にあげたお気に入りのパジャマ、涙と鼻水で濡れちゃうよ太志郎くん。

「お前もうちょっとちゃんとせな、お腹の赤ちゃんへたれなんで」
「太志郎くんみたいに?」
「やかまし」

 プロポーズをされてからこっち、太志郎くんも私もいろいろとスケジュールが詰まっていて忙しかったもんだから、入籍だけしてそこからは大忙しでそれこそ馬車馬のように働きまくった。そうしたら或る日突然急に具合が悪くなって、よもや過労かと思い病院に行ったら、妊娠をしていると発覚したのだ。太志郎くんが言っていたプロポーズの内容を思い出して病院でひとり、こっそり笑っていたのは、太志郎くんには内緒。

「男か女どっちやろなぁ」
「名前どうする?」
「なにがええかなぁ」
「まあでも、顔見た瞬間に決まるって聞くしね」

 すこし出てきたかな、というくらいにしか膨らんでいないお腹をおおきな掌でやさしく撫でながら、太志郎くんが笑う。毎日、事務所で兄ちゃん達に名前をどうしようかだとかなにを買えばいいかだとか言っているらしい。関西人の血がそうさせているのか、彼の気が早いのはいつものことだ。

「もうそろそろ寝よう、太志郎くんほんとに明日遅刻するよ」
「ほんまや、寝な。胎内の赤ちゃんにも悪いしな。おやすみ」
「おやすみ〜」

 太志郎くんと一緒に毛布にくるまって、じんわりと伝わる互いの体温を僅かに感じながら私はそっと目を閉じた。
 太志郎くんがいつか言っていた、子どもができたら川の字になって寝るという夢は、もうすこしで叶う。そのとき太志郎くんは、きっとまた感極まって泣いてしまうんだろうな。

 ああなんて、幸せなんだろう。