死灰復燃ゆ



 今日もまたを傷つけてしまった。
 俺が一番に擁するべきは彼女であると知っているのに、彼女より大事にしていたいものなどなにもないと思うのに、認識とは裏腹に現実とはうまくいかないもので、と会うたびになんかしらの方法で巧妙に、絶妙に彼女の健やかな精神を削ってしまう。
 深夜の国道は昼間とは打って変わって空いているからアクセルを踏みこむ右足に躊躇いはいらない。赤信号に引っ掛かってブレーキを踏もうと横断歩道を渡る人影はなく、目の前を横切る車両もまばらでつまらない視界をなんとかしようと助手席を見れば、は自身の右肩を枕にするようにして器用な体勢で眠っていた。そんなふうに奇妙な体勢で眠っては肩を痛めてしまうと思ったけれど、無理に起こすのは気が引けた。不貞寝なのだから、尚更。

 このところ仕事が忙しくてろくにとの時間を取れずにいた。そんな中で今日は漸く二人の休みが重なった土曜日で、昼間からドライブがてら海を見に行った。海を見ながらとるに足らない会話を何時間もしたりして、たまにうとうとしたりして、たまたま見つけた隠れ家みたいなレストランで食事をとって、まだまだ土曜日が終わるには早い時間だったことをいいことに巧妙な手口でホテルに誘ってセックスをして、シャワーを済ませてから少し眠って、土曜日が終わってしまったことを残念に思いながらホテルを出た。そして車の少ない国道に入り暫く経った頃、仕事に食い尽くされていく日常のなかにちかりと光った土曜日だったとニヤつく頬を窘めながらハンドルを握る俺に、いくつになっても情事の後に処女を喪失したばかりの少女のように頬を染めてそわそわとしてばかりいるが言った。
 ――あのさ、来週の木曜日、時間とれるかな。
 家に置いてきたスケジュール帳を頭の中で開けば木曜日は午前中に他事務所とチームアップのミーティングがあるくらいで他に特筆するべきことはない。とは言えヒーローという職業をしているだけあって定時に退社できるとも限らない。我が儘を言わないわけではないがどちらかといえば遠慮がちで俺の仕事の妨げになるようなことはしないが自ら俺を誘うことなど珍しいと言うのに、情事後の高揚感と、いつまでもその優秀さを削ぐことのないの可憐さにあてられて迂闊にも彼女の真意を思うことなく口を開いてしまった。
 ――なに。なんかあんの?
 サイドミラーを経由して見遣ったの表情が一瞬にして曇ったのは言うまでもない。
 来週の木曜日はの誕生日だった。

 人間なのだから絶対に忘れてはいけないことを忘れてしまうことはある。パソコンのように頭でも体でもなくただその構造の中に忘れてはいけないことを刻むことなんて不可能だ。それでも、銀行口座の暗証番号を忘れても、携帯電話のパスコードを忘れても、それだけは絶対に忘れてはいけないことだった。ましてそれを当てつけのように彼女の前で晒してしまうだなんて、大失態も良いところだ。
 土曜日を日付に置き換えて、木曜日までの日付を計算して、そして木曜日の真実に気付いて声を上げたときには全てが遅かった。が俺を責めることはなかったけれども、喉元にせり上がる憤りが唇から零れることを恐れてかは途端に無口になり、俺が何を言っても返事をせず、最終的には目を閉じて動かなくなった。きずついたよ。ばか。とうやくんさいてい。すやすやと左耳に微かに響くの寝息が暗にそう言っているような気がする。ごめん。ほんと、ごめん。胸の内でひたすら謝罪を繰り返しながら、信号の青に誘われてアクセルを踏み込んで、ハンドルを切った。

 との付き合いは高校時代からのもので、年数にすればもう直10年にもなる。当初は互いにまだまだ子どもで、それこそ些細なことで喧嘩もしたし、はその度に当てつけのように涙して、俺はその度に彼女のあざとさに平伏して時折辟易もして、こんなことを何年続けていけるのだろうかと青いながらに未来を危惧した日もあった。けれど過ごしてみれば10年だなんてあっという間で、今となってはのいない人生なんて考えられない。心の内にはいつだってがいる。同じことの繰り返しの毎日に疲れきって、ひとりきりになりたくて、自暴自棄のような素振りで胃の中へ別段うまくもない酒を流し込んで自室の隅に誂えたベッドの中で吐気を催しながら眠りに就くどうしようもない夜だって、目を閉じれば瞼の裏には無遠慮にも入りこんでくる。それほどまでに、心の内にいつだってがいるのに。
 もう子どもではないのに、大概の欲しいものに手が届くようになったって、好きだと舌に乗せる行為に一切の躊躇いがなくなったって、それでもいたずらに傷つけあうことをやめられない。今日もまたを傷つけてしまった。を傷つけてしまった自分自身の愚鈍に身勝手にも傷ついてしまった。あの頃のように些事で彼女が涙することはないし、俺が彼女のあざとさに青ざめることもないけれど、それでも傷心の度合いは変わらない。これが人間社会に於けるコミュニケーションの弊害で、恋愛に於ける醍醐味だと言ってしまえばそれまでだ。
 けれど、ただの言い訳だと言われてしまえば、やはりそれもそれまでだ。

 が住んでいるマンションの前に車を止めてエンジンを切った。が大学を卒業するのと同時に一人で暮らし始めた小奇麗なマンションは静な住宅街の中にあって、昼間もだけれど深夜となれば殊更静かで、ましてここは車の中で、まるで世界中の全ての視線から隠れているような気分になった。フロントガラスから射しこむ街頭のいやに白い光に照らされるの少しだけ日に焼けた白い頬を見ているとおびただしいほどの愛しさが体内からどろりと噴き出して思わず起こすのも忘れて見入ってしまう。直に目を覚ますこととなる彼女の悲しみはまだ癒えてしないだろうし、怒りもまだ収まってはいないけれども、全ての憂いを払って、シートベルトを取り去って、衝動のままに身を乗り出して眠るに口付けた。
 もしかしたら童話のように目を覚ますかもしれないだなんて淡い期待は裏切られて、余程疲れていたのか唇を奪われたにも関わらずが覚醒する気配はない。それをほんの少し残念に思いながら唇を離せば目の端に人影が映った。身を起こして前方を見遣ればコンビニの袋を右手から提げて顔を真っ赤にしている二十歳前後の青年とフロントガラス越しに目が合った。その隣には同じ年頃と思える女の子がいて、やはり彼女と同じように顔を真っ赤にして俺を見ている。世界中の視線から逃れているとの錯覚を覚えての強行だったと言うのに、どうやら大きな思い違いだったらしい。他人のはしたない恋愛模様を目の当たりにして頬を染めて息を飲む二人はまるでいつかの俺とのようだった。些細なことに息を飲んで、些細なことに頬を染めて、些細なことに恋愛の困難を思い知っていた。きっと彼女等もこの先恋愛の困難に立ち向かっていくことだろう、ちょうど俺とが今日までそうして過ごしてきたように。
 左手の人差し指を唇に押し当てて微笑めば、ぐっと唇を引き結んだ二人は耳まで真っ赤にしたまま足早に車の脇を通って深夜の住宅街へと消えて行った。次第に小さくなっていく恋人同士の背中はやはりいつかの俺とにそっくりで、眠り姫のような素振りでいつまでも眠っているのことがより一層愛しくなった。

 たぶん、どんなに上等な言い訳をしたところで今日の大失態をが忘れることはない。争いを好まないは容易く許してくれるだろうし、俺を責めることもないだろうけれどもの胸に刻まれた傷心は消えないだろうし、彼女史上最悪な誕生日の思いでとして未来永劫俺の不名誉は彼女の中で息づくことだろう。たぶん、それを阻止する術はたったひとつだ。

「覚悟しとけよな」

 彼女を夢の世界から引き戻して、謝罪と弁明の一切を止めて開き直って、家に帰って一眠りしたら出掛けよう。
 彼女に誂えたように似合う婚約指輪でも探しに。