※本誌No.161捏造有り

悲しみはもう食べられない



 空腹によって思考が散らかり寝ようにも寝れずにいた状態の意識でも、廊下を擦るリノリウムの小さな足音は辛うじて耳に届いた。次いで病室の扉がゆっくりと開かれる。そちらに目を遣ると、ひょこりと人ひとり分程に開かれた扉の隙間から室内を窺うように顔を覗かせた少女と目が合った。ふわふわと靡く橙の髪にくるりと丸い蒼碧の瞳を持つ少女は初めて見る顔だったけれども、この状況で推論を立てることは然程困難ではない。
 扉が開かれる時、ローラーと扉のぶつかる音はしなかった。無駄な雑音を発生させないそれらの行動は患者への十二分な配意を感じさせるもので、少なくとも俺を訪ねるような人物は殆どが粗野とまではいかないけれどもどこかしらいけぞんざいな者ばかりだ。彼女のようにここまで密やかで細やかに他者を慮ることをするような奴はいない、要するに来訪者の相手は大凡絞られる。

「あの、すみません。入っても大丈夫ですか?」

 それはまるで鈴の転がるような声、とでも言えばよいのだろうか。聞く者を安心させるような、ともすれば強張った力を抜いてこころまで落ち着かせてくれるようなそれはもっと相応に良い表現があるような気もするけれども、俺の比較的貧相な語彙力では相当する言葉には思い至らなかった。

「おお、入り。こいつら寝とるけど、まあええやろ」

 こいつら、と切島くんと環を指しながら手招きをすると、「……お邪魔します」と小さく舌に乗せおずおずと病室内へ足を運び、すいよすいよと眠る環の姿をその碧眼に映した途端に先程までのやや硬い表情がゆるりと解けて瞳に安堵を滲ませた。どうやら緊張していたらしい。無理もないかと胸中にて重々しく頷く。箝口令の敷かれた状態で任務の情報を把捉することも叶わない中、知り合いが怪我を負って戻ってきたのだ。顔と頭におびただしく包帯の巻かれた姿に心配をしないわけがない。
 彼女は病室の隅に置かれた丸椅子のひとつをずりずりと動かして俺のベッド脇へと持って来ると、ちょこんとトートバッグを抱えたまま座った。バッグを持っているところからしてお見舞いのようだったけれども、わざわざ起こす気はないらしい。

「お嬢さん、環のアレかいな」
「……?、……えっ!あっ、あー、すみません、ご挨拶が遅れてしまって……、あの、っていいます。環くんと同じ雄英に通ってて、幼馴染みなんです」

 そういえばいつかの日に、滅多に自らを語ることのない環が珍しく幼馴染みについて話してくれたことがあったと一瞬のうちに思い出された。ルミリオンの他にもう一人いるという環曰くの「優しくて強くて聡明で、けれどどこか危うい、俺にはもったいない幼馴染み」、それがきっと彼女なのだ。未だ確信は持てないけれどもこの考えを疑う余地もない。これは、ただの直感だ。
 些か古風すぎる表現だったのだろう、この際ジェネレーションギャップと言ってもいい。アレと言いつつ立てた俺の小指にきょとんと首を傾げた彼女はけれども僅かな逡巡のうちに意味を察したらしかった。ハッとした顔をして名乗りながら俺に見えるよう掌に漢字を描いて、ぺこりと頭を下げる姿は純粋に初々しい。ええねんで、と笑い掛けると安心したように軽く息を吐いて、けれども、いつも環くんがお世話になってます、と続いた言葉に今度はこちらが首を傾げることになった。

「俺、名乗っとらんよね?」
「ええと、環くんも切島くんも、あなたの事務所でインターンをしているから、病室が一緒なのはそういう意図かと思って……」

 俺の今の姿を見て"ファットガム"と繋げることのできる人物は決して多くない。説明せずとも理解をしているのはせいぜい身内か学生時代の同窓生か事務所のサイドキック達くらいのものだろう。彼女とは今日初めて会った。ヒーロー活動の折に会った記憶もない。
 病室が同じ、たったこれだけの情報で推論を立てるのは些か早計のような気もするけれども、勘が良ければ察することは容易であるしきっと彼女は確信を得ている。俺が"ファットガム"であるという確信を。

「女の子の勘って怖いなぁ」
「……状況把握で予測を立てるのは、幼馴染みの十八番なんです」

 肩を竦めた俺に対し、困ったように笑いながらちゃんが抱えていたトートバッグから取り出したのは林檎だった。恐らく、サワールージュ。ふじや紅玉より少し酸味の強い品種だ。環の好みだろうか。花の類いを持って来ていないのは、入院がさして長引かないことを知っていたからだろう。超人社会となった今現在では怪我や負傷の治癒に然程時間を掛けずとも完治は容易い。
 トートから果物ナイフと紙皿を取り出して、林檎の皮をするすると危なげなく剥いていく。そして芯を避けるように井ケ田の形に包丁を入れた。日本ではあまり見ない切り方だったけれども、恐らく効率を重視したのだろうと思った。切った林檎を紙皿に並べ、これまたトートから取り出した爪楊枝を刺しサイドテーブルに置かれる。どうぞ、と薦められたからありがたく頂くことにして爪楊枝に刺さったそれを口に運ぶと、やはり平素食べているものよりも酸味が強かった。

ちゃん、は環の幼馴染みなんやね」
「そうです」
「ルミリオンともか」

 ルミリオン、という単語に僅か表情を硬くして、「……はい、」少しの沈黙のあと、そのまま噛み締めるように頷く。その表情で訊くまでもなくわかってしまった。ルミリオン、基通形ミリオが現在措かれている状況を彼女は既に耳に入れているものだと。些か意地の悪い問いであることは自覚していた。決して虐めようと思い問うたわけではないのだけれども、現実を突きつけられる前にワンクッションとして確認をしておきたかったのだ。本来であれば個性消失という結果すらも口止めはされるべきものであったろう、けれども家族と、家族に程近い立ち位置にいる彼女には話して然るべきであると通形が判断したのであればそれはもはや部外者がやいやいと口を出せる問題ではない。

「わたしは今回の件について、あまり詳しく聞いたわけじゃありません。プロヒーローまで出動した案件の結果がこれならば、当然、相応の危険は伴うものですから」

 ゆるりと眉尻を下げて目を細めて、それでどうにか笑っているらしかった。けれども膝に置かれた手は握り締められ、僅かに震えている。少しでも立ち止まってしまえば今にも泣き崩れてしまいそうなのを我慢していることくらい、俺にも理解できた。繊い心が卵のようにくしゃりと潰れてしまわないようにと彼女は必死に前を向いている。その精神力を強いと一言で括ってしまうにはあまりにも脆く危うく、なにが引き金となって卵を撃ち抜くかわからない。けれども。

「心配は、します。ミリオはすぐに無理するから。……でも、ミリオならきっと、大丈夫です」
「……大切なんやね」

 ぐっと顔を上げて、大丈夫だと舌に乗せた彼女の目は揺らぐことなくどこまでも真っ直ぐだった。その瞳に滲むのは憂慮であったり悲壮であったり或いは信頼であったり一縷の希望であったりするのだろうけれども、それらの感情がひとえに通形へ向かっているものなのだとすればそれを一括りで言葉にすることは容易い。愛だ。
 彼女が通形を、引いては環のことを想い、心配し、愛しているということはこの短い関わりの中でも十二分に理解した。大切などという安直な言葉で済ませてしまってよいものかと一瞬躊躇する気持ちもあったけれども、やはり俺の貧相な語彙力では相応する表現には思い至らなかった。

「そうですね、とっても」

 小さく頷いて密やかに微笑む彼女の表情が、齢十七程の女の子が浮かべるにはあまりにも大人びていて、年不相応な程にたおやかで、まるで子を寵愛する母親のような穏やかさを纏っていたものだから思わずそっと息を呑む。
 そうして溢れ出してしまいそうな勢いと大きさで胸中を占めたのは彼女は幸せにならなくてはいけない、という感情だった。これは、ただの直感だ。

「幸せモンやなあ、環は」

 環が言う「優しくて強くて聡明で、けれどどこか危うい、俺にはもったいない幼馴染み」は、たぶん環の言う通りの評価なのだろう。彼女は真面目で奇特な環の機能を著しく低下させることも、それを普段通りに修正することも容易いひとだ。
 長いようで短い戦いの果てに彼らが、或いは彼女らが負った傷は身体に刻まれた外傷だけに留まらない。目的を果たしたその先に待ち受けていた終着点が望まぬ結末であったことに変わりはないけれども、それがすべて絶望であったとは思わない。彼らの、或いは彼女らの関係になんの不安要素も解決を要される問題もないと言えば真っ赤な嘘になるけれども、きっと、心配することはなにもない。

「……ふふ、なんですかそれ」

 少し恥ずかしそうに笑い声を溢すちゃんを見て、彼女はきっと環と幸せになると、そんな決して遠くないであろう未来を考えて一人で笑ってしまった。