眩暈の余韻



「この子にとっておまえはヒーローじゃない」

 治崎にそう言われたとき、腕の隙間から垣間見えたエリちゃんの表情と、いつの日にか見たの表情とが重なった。あれは俺が彼女になにひとつとして有益な言葉を掛けてやれなかった、不誠実として俺の中に今なお残る後悔の記憶だ。が祖父の死を明確に理解したときのような、落胆にも諦念にも近いそれに背筋が凍りつくようにゾッとして、だから余計に救けなければならないと思ったのだ。胸にぽっかりと空いた穴が埋められないでいる様がはっきりと見える。痛々しいくらいに。
 八斎會の構成員が吐き捨てた、自分が楽になりたいだけ、という言葉を否定はできなかった。俺自身の弱さによって救えなかった過去と見過ごした禍根はずっと心臓の裏側にへばりついていて、それは憂鬱となって、自分でさえ意識の傾倒しないような胸の奥の奥の奥に潜んでじわりじわりとこころを蝕んでいる。
 けれども俺は俺が弱いことなど疾うに知っていて、みずからの弱さなど疾うに受け入れていて、彼女を守れるくらいに強くなるのだと決意していて、だからこそ今まで励むことができたのだ、と。これは綺麗事でも理屈でもなく直感で、本当に恐ろしいのは酩酊ではなく失意することだ。

「大丈夫!!俺が君のヒーローになる!」

 ――あの子が笑えないままなんて、

 そのとき確かに俺はエリちゃんを見ていたはずなのだけれども、不誠実な俺の脳裏を過ぎったのは紛うことなくの姿だったのだ。


「とおがた……ミリオっていうの?」

 という少女と初めて出会ったときのことは、十余年経った今でも記憶に鮮明だ。互いの両親が長年の友人のように仲が良かったから、赤子の時には既に一緒にいたようだったけれども、流石にそんな記憶は残っていない。だからこれは、俺たちが互いに物心のついたばかりの、個性が発現するすこし前の話だ。
 今よりももっとの人見知りは激しくて、母親の背に隠れるように顔と半身だけをこちらに覗かせて、けれどもきらきらと星を散りばめたように眩く輝く翠の双眸は確かに俺を見つめていた。

っていうんだよね?って呼んでもいいかい?」

 そう言いながら手を差し伸ばした俺に対しては僅かに怯えたような仕草を見せたけれども、俺が手を引っ込める気がないとわかると、おずおずと躊躇いながらもそっと指先に触れて、そしててのひらに乗せた。その手をぐっと繋いで軽く引っ張ると彼女は容易に隠れ蓑にしていた母親の後ろから抜け出した。ふわり、ときれいな赤毛の髪が風に靡く。当時の俺にとっては、その時の彼女がまるで天岩戸から出てきてくれた天照大神かのような感慨を覚えたのだ。

 と知り合って長い年月を共にして、彼女の可憐さも強さも脆さも知って、守りたいという感情は強くなる一方だった。尤も、はそれを望んではいなかったけれども。それを知るのは然して遅くはなかったように思う。

「ね、ミリオ。ミリオはね、きっとすごいヒーローになるよ」

 個性が発現しても小学校に上がっても、環と出会ったその後であっても、俺との関係性は変わることはなくて、いつだっては俺にもそのあたたかなてのひらで俺の手をきゅっと包み込んで、環と同じように分け隔てなく鼓舞をくれた。
 俺は俺が弱いことを知っている。俺は俺が弱いことを受け入れている。それでもどうしようもなく不安に苛まれるときはあって、こういうことは独りでいるときだけでなく、定期的に律儀に襲ってくる。と一緒にいるときでさえも場違いな不安は律儀にやってきて、こころの憂鬱が充満した世界へとこのからだを押し出すのだ。

「大丈夫だよ。ミリオはかっこいいヒーローなんだって、わたしが一番よくわかってるんだから」

 の声にこころを覆った闇が霧散していく。それはあまりに眩しく、身勝手にも蓄積されていた体内の不安が一瞬にして消し飛んだ。思わず呆気にとられてしまう俺の眼前に彼女のてのひらが差し伸べられる。かつて彼女に出会った日の俺がそうしたように。
 招かれるままにの肩口へと額を預ければ、彼女の細い両手がぎゅっと俺の背を抱く。たったそれだけのことで、不誠実な心臓の裏側にべったりとへばりついた憂鬱が融解してしまうから不思議だ。たったそれだけのことで、みずからの心が満たされるような、溢れるような感覚をおぼえてしまうのだから、俺は彼女に幾度となく救われている。

「……ありがとう、
「ふふ、どういたしまして」

 ありがとうなんて言葉では足りないくらいのこの感情を持て余してしまいたくはなかった。それならいっそのこと忘れてしまわなければいい。きっと、この温もりも消えることはないだろう。

 今となっては既に時効であろうからこの際白状するけれども、なんせ彼女は俺の初恋だったのだ。