向日葵の安寧



「あのね、ミリオ。わたしね、環くんと付き合うことになったよ」

 快活、とまではいかないけれども基本的に明朗なが珍しくそわそわと落ち着きが無くて、しかも時折てのひらを見つめてはほわりと頬を染めるものだから、これはあからさまになにかがあったな、とは予感していた。どうやら無意識に片方の個性を発動させているらしく、彼女の歩いたアスファルトの後はまるで足跡を残すようにぽこぽこと野花が頭を出している。“個性”が発現したての幼児のごとく制御が効いていないその様子にすこしおかしくなってしまい、笑いを堪えながら暫く観察したのちにどうかしたのかと問うてみたところで、まるで花が綻ぶようにたおやかな顔でから返ってきたのがそれだった。
 その言葉を聞いて最初に漠然と思ったのは「ああ、やっとか」で、そういえば今日は環も少し様子がおかしかった気がするな、とも考え、あれは浮ついていたのか、と漸く理解したところで、どうやら似た者同士であるらしいふたりに思わず笑いが吹き零れた。

 俺とと環は、世間一般的にいう所謂幼馴染みだ。
 特にとは、母親の話だとどうやら産まれた病院から一緒だったらしい。俺は7月生まれでは3月生まれだから、さすがに新生児室から一緒とは言えないけれども、偶然か必然か家までご近所さんだったものだから、同い年の赤子を連れた母親同士が仲良くなるのは極めて自然なことであったろう。
 俺とに血の繋がりは全くないけれども、それでも物心のつく前から一緒にいる存在というのは思っている以上に近しいもので、俺たちはまるで双子の兄妹のように育ってきた。公園のブランコで遊ぶのも、幼稚園で本を読むのも、おやつを食べるときもその殆どは隣にがいて、の隣には俺がいたように記憶している。勿論俺もも、お互い以外の友達はいたようだったけれども、それでも共有する時間が誰よりも多いのは確かであった。

 幼馴染の贔屓目だと言われてしまったらそれまでだけれども、は可憐だ。すっきりとした鼻筋も、すこし撫で気味の華奢な肩も、下瞼を持ち上げる日当の猫のような笑い方も、ふわふわとした赤毛の髪を左耳に掛けて撫でつける癖も。よく野良猫や散歩中の犬に絡まれているのを見ることがある、ころころとよく変わる表情やそのやわらかな雰囲気は、どうやら人だけでなく動物までも惹きつけるようだった。
 個性にしたって、彼女は俺と同じくらいに精確なコントロールを求められるそれをどうやって扱うかをずっと考えていて、特に“太陽”の個性は使い方を誤れば人を殺めてしまうことだって難しくないものだ。思えば雄英に入るまでは“クロロフィル”の方を主に使っていたし、もう一方の個性は殆ど行使していなかったように思う。自らの個性の有用性と危険性を誰よりも理解していたのはきっと彼女自身だった。

 俺とがまだ幼稚園児の頃、の父方の祖父が亡くなった。彼女の祖父には俺も何度かお世話になったことがある。自宅から優に五キロは離れていたであろう幼稚園まで自転車に乗ってを迎えに来たときは流石に度肝を抜かれた。だから母親から訃報を聞いたときにはあんなに元気だったのにどうして、と思ったけれども、後に聞いた話だと死因はどうやら肺癌であったようで、けれども死因よりも俺が気に掛かったのはのことだった。後日、幼稚園でに会って別段普段と変わりのない様子に幾ばくか安堵はしたけれども、彼女がどうやら“人が亡くなったこと”に対して理解をしていないらしい、ということに気づくのに時間は掛からなかった。

「だって、おじいちゃんはいつか帰ってくるんでしょう?」

 きょとん、と無垢な瞳を携えてそう訊ねられて、俺は言葉に詰まってしまい何も答えることができなかった。そこで漸く俺は、は泣かなかったのではなく、泣けなかったのだと気づく。このとき、彼女にどう言ってあげることが正解だったのか、十余年経った今でもわからないままだ。

それから俺たちは小学生になって、季節が二巡したときに環と出会った。
 そしてあれは確か、そこから更に季節が三巡したときであっただろうか、が唐突に俺の部屋を訪ねてきたことがあった。どうかしたのかと問うた俺に茫然とした様子でが返した言葉はこうだ、「おじいちゃんは、もう帰ってこないんだよね」。
 正直、愕然とした。そして同時に危ういとも思った。

幼馴染みの贔屓目と言われても構わない。は可憐で優しく、凛々しく逞しく、強い子だけれども、存外脆い。だから俺が守ってあげるべきなのだと思った。彼女が然るべき相手と出会って、きたるべき時が来るまでは。
 そうしてその時は存外早く訪れたようだった。

「そうかあ」

 なんだかいやに感情が抜け落ちたような声が出てしまった。娘を嫁にやる父親の気持ちというのは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。今まで一緒だった片割れのような存在が他のひとと共になるというのは不思議な気持ちだ。まるで個性を全身に使ったとき、地面に落っこちたときのような感覚、けれども心臓は鼓動を刻み、網膜は光を捉えているし、呼吸は滞りない。

「環はいいやつだし、それは俺が保証する」
「……ふふ、うん、知ってるよ」
「だから心配ないと思うよ、なにも。大丈夫、は幸せになる」

 ほわりと頬を染めたは心底嬉しそうに口角を釣り上げて、瞳を細めて微笑んでありがとうと言った。幼かった彼女もすっかり女性らしい表情をするようになって、贔屓目でもなんでもなく、ああこれは環が落ちるのも納得だと感じる。
 その可憐さに少しばかり悔しさが頭を擡げたけれども、彼女がこうして今確かに笑っていて、彼女を幸せにしてくれるのは他でもない環なのだから安心して任せられる、それだけでもう充分なのだと思った。

「おめでとう」

 俺は、ちゃんと笑えていただろうか。
 が先程よりもやや抑えた声で、ありがとう、と言ったのが聞こえた。その喜色をふんだんに含んだ声色に胸がぐっと詰まる感覚がして、なぜだかひどく泣きそうになってしまって、気づかれないようにそっと手を握り締める。てのひらに緩く刺さる爪の感触を覚えながら小さく鼻を啜ると、僅かに歪んだ視界が明瞭になってきたのでどうやら涙腺は言うことを聞いてくれたようだった。
 そっと空を見上げれば、夕焼けは少し明るさを落として、その赤い光にいつの間にか夜の気配が忍び込んでいる。
 目を閉じて、ひっそりと息を吸って、ああどうか彼と彼女の未来に安らかな幸福が訪れますように、と願わずにはいられない。

 ある日の、穏やかな春の帰路のことであった。