「好奇心は猫をも殺す」とはよく言ったものだけれども、この言葉の意味を初めて、痛いほどに理解した。
「……あ、環先輩だ」
或る日の昼休み。今日は教室で昼を食べるからと食堂の購買でおにぎりやらパンやらを購入し、いざ教室へ戻ろうと廊下を歩いていたときのことだ。
目前に、インターン先で世話になっている先輩である天喰環の後ろ姿が目に入った。両手をスラックスのポケットに突っ込んだ、相変わらずの猫背スタイルである。その手にはビニール袋を携えていて、恐らく天喰も購買で昼飯を購入したのであろうことが察せられた。
雄英はマンモス校故に生徒数が他と比べ格段に多いため、校内で知り合いと偶然に会うことはそう多くない。折角の珍しい機会、挨拶をしようかと口を開いたとき、天喰が曲がり角を右に入った。このままでは見失ってしまう、慌てて小走りに追いかけると、階下へ降りる後ろ姿を捉える。今までは別段気に留めてはいなかった事象だけれども、天喰は意外と足が速い。
このとき、切島は教室にて上鳴や爆豪が待っていること、昼休みの残り時間のことなどすっかり頭から抜け落ちていて、どうしてそこまで天喰を追いかけることに固執していたのかと切島はやがて後悔することになるのだけれども、今の時点ではそんなこと知る由もないのである。
それから一階まで降り、昇降口とは別にある扉から外に出ていく様子を見て漸く理解した。どうやら中庭に向かうらしい。さすがに外まで追いかけてしまうのは、と踏みとどまり、扉に手を掛けたまま顔だけを覗かせるようにして天喰の後ろ姿を視認した。さすがにも何も、ここまで来ておいて今更であるけれども、切島はそのことに気づかない。
雄英の中庭は一面に芝生が敷かれていて、幾つかのベンチが点在している。その内のひとつへ天喰が迷いのない足取りで向かっていくのが見えた。当該のベンチに横たわっている生徒の姿を捉え、よもや体調不良で昏倒しているものかと一瞬憂慮したけれども、腹部から腿にかけての範囲にブランケットが掛けられている周到さに気づく。生徒は女子で、どうやら昼寝をしているらしかった。
オレンジの髪がふわふわと微かに風に靡いて、燦々とした太陽の光に当たり金色に透けて輝いている。些か距離が開いているしこちらからは女生徒の頭しか見えないけれども、その光景があまりにも浮世離れしているものだから、まるで絵画のようだ、とぼんやり思った。絵画なんて高尚なものを見たことはない、けれども、きっとそれはこういうものなのだろう、ということだけはわかる。
天喰が片膝をつくように屈みながら、恭しく女生徒の髪に手を伸ばして、まるで壊れ物に触れるかのようにゆっくりと髪を梳くように数度撫でた。それから恐らくは顔にかかる髪を指先で払って、頬に触れて。
そして、ひっそりと微笑んだ。
(……う、わ)
その微笑みがあまりにも、平素の堅い表情からかけ離れた甘いものだったから。
切島はシャツの胸元を握り締めてぐっと舌の端を噛んだ。
そこには淫猥な雰囲気など微塵もない、むしろ神聖さすら感じられる、それなのに、まるで見てはいけないものを見たような気持ちになってしまった。なにかがうるさい、と耳を澄ませばそれは自身の心臓の音だった。
(――これ以上は、ここにいちゃだめだ)
うまく回らない思考の中で漠然とそう理解した切島は慌てて飛び退くように扉から離れ、全速力で階段を駆け上がり教室に戻った。途中で13号の「危ないから廊下は走らないでください」という声が聞こえたような気がするけれども、今の切島にそれを冷静に聞き入れられる程の余裕などある筈もなく。
「あれ、切島遅かったな、どこまで行ってたんだよお前、もう食べちゃってたぜ」
「っわ……、わりい、ちょっと迷っちまってよ、」
「どうやったら食堂から教室の間で迷うんだよ」
教室に飛び込むと既に上鳴と爆豪は食事を始めていて、時計に目を遣って漸く、昼休みの時間が残り半分を切っていることに気がついた。ゼイゼイと未だ荒い呼吸を落ち着かせるように脇腹を擦って、椅子にどかりと腰を落ち着けながら、昼食と一緒に購入した500ミリリットルのペットボトルを取りだし一気に半分程を呷る。咽喉を過ぎる冷えた水が、かっと燃え上がった体温を沈静させるようだった。
「つーか、どんだけ走ってきたんだよ、顔めっちゃ赤いけど」
からかうように切島の顔を指差す上鳴の言葉を聞くなり、先程の光景が、息苦しさが、熱が、ぐわりと甦りそうになって、慌てて個包装を剥がしたおにぎりにかぶりつき、言葉と共に咀嚼して呑み込む。切島がなにも言葉を返さなかったことに上鳴はやや怪訝そうな顔をしたけれども、口いっぱいにおにぎりを詰め込む様子を見て、それ以上の言及は諦めたようだった。爆豪は我関せずといった様子でマイペースに弁当箱をつついている。
そんな二人にこっそりと安堵のため息を吐きつつ、心中を以て謝罪した。
だって、あんな、見ているこちらが呼吸困難に陥ってしまうような光景、本来は他人が見てはいけないものだ。決して言い触らせるものではない、言えるわけがない。
あの場所で見たことも、感じたことも、未だにばくばくとうるさい心臓の音も首元の熱も、これはきっと、墓場まで持っていくべきだ。
咀嚼したおにぎりと体内に籠る熱を逃すように、再度水を呷る。
記憶は認識よりもずっと鮮明だ。
目を閉じてしまえば今でもありありと甦る、天喰の微笑みが網膜の裏側にぺったりと張りついて離れない。