「一佳ちゃん!」
息つく間もなく怒濤のように過ぎた夏休み明けのことである。廊下を歩いていると、ふと名前を呼ばれた。背後から掛けられた声の主が誰か、というのを脳が認識する前に振り返ったのは、その人物が私にとって大切な存在であることを頭ではなく心で知っていたからだ。
ふんわりとした、私の髪とはまた違う色のオレンジを靡かせてこちらへ小走りに向かってくる先輩は、なにを隠そう先の期末試験前に演習内容を訊いた"知り合いの先輩"そのひとであって、会うのはそれ以来となる。
その表情はいつも以上に眉が下がって、今にも泣き出しそうで。正直、しまったと思った。ヴィランの襲撃やら寮への移動やらでばたばたとしていたものだから、今の今までまともに連絡ができていなかったのだ。
「先輩」
「一佳ちゃん、林間合宿大変だったんでしょう?身体は大丈夫?どこも怪我してない?期末試験の演習も今回は違う内容だったって聞いて、わたし、余計なこと言っちゃったなって、どうしようって思って、それで、」
「先輩、先輩。落ち着いて」
平素より決して饒舌な方ではない先輩が珍しくマシンガントークをしてきたものだから、落ち着かせるように自分より僅かに低い位置にある両肩を軽く二度程叩くと、我に返ったのかハッとしたように口を閉じて、胸の前で重ねていた両手をきゅっと握り締め俯いた。
先輩の焦りようを見て、相当に心配を掛けてしまったことを今になって思い知る。特に長い付き合いというわけでもないのに、彼女はどこまでも優しいひとだ。
そもそもの出会いは、別段語る程のものではない。
まだ入学して二ヶ月程しか経っていない頃の事だ。偶々図書室に所用があって課題に使う本を探しに来た私に、図書委員よろしく参考書の置いてある場所を教えてくれたのが偶々先輩だった、それだけ。
訊けばどうやら先輩は図書委員ではないようだったけれども、本を読むのが好きで足繁く図書室へ通っているのだそうだ。確かその時手に持っていた本は『グラスホッパー』だった気がする。
そこで少し話をして、探していた本がヒーロー情報学の課題に使うものなのだと言うと、先輩が一年生だった時の話をしてくれた。容姿と雰囲気からてっきりサポート科のひとだとばかり思っていたものだから、彼女がヒーロー科の三年生だと言った時は内心驚いたものだ。
それから、廊下ですれ違った時には挨拶をして、放課後に図書室で勉強を教えてもらったり、ごく稀に食堂でお昼を一緒に食べたりした。次第に会う時間は増えていき、お互いの個性の話やプライベートな話もする程になっていた。
私の個性が大拳だと言うと、先輩は身体資本の個性を持つヒーローがヴィランと対峙したとき如何にして立ち回らねばならないかという話をしてくれた。先輩もどちらかといえば素手で戦うタイプの個性で、相応に身体は鍛えているらしい。片手で数えられる程度ではあるけれども、何度か手合わせをさせてもらったことがある。比較的小柄だからかフットワークが軽く、身のこなしはまるで軽業師のようで、それなりに筋肉はつけているようだったけれども、その重さを全く感じさせない動きだった。
本人曰く、特段成績は良いわけではないらしいけれども、座学にしても実技にしても、先輩はひとに教えるのが巧い。勉強をするときは普段からひとに教えることを意識しながら行うことで、より記憶に定着しやすくなるのだという。「学びて時に之を習う、亦説ばしからずや」とは孔子の言葉だそうだ。正直、英語なんかはプレゼント・マイクよりも分かりやすかったと思う。あのハイテンションな授業にいまいち乗り切れないというのも、一因としてはあるのだろうけれども。
それと、どうやら先輩はあの雄英ビッグ3の通形先輩と天喰先輩の幼馴染であるらしかった。更には天喰先輩と交際をしているそうで、正反対に見えるふたりのアンバランスさに驚いたのは仕方のない事だと思う。けれども、天喰先輩の話をする先輩は紛うことなく女の子の顔をしていて、私は別段恋に興味はなかったけれども、その姿に少し、良いな、と思ったのは事実であった。
先輩と関わる程に、彼女のひそやかな魅力を知るたびに、先輩の纏うふんわりとした穏やかな雰囲気に、なんとなく、なんとなく放っておけないと思ってしまうのは、私が世話焼きな性格だからではない筈だ。
「私はどこも怪我してないし、今はみんな元気です。期末試験の演習も確かに内容は変わってましたけど、ちゃんとクリアできたんで」
だからそれ以上気に病む必要はないんですよ、と言外に伝えると漸く落ち着いてきたようで、先輩は私に視線を合わせたままにゆっくりと瞬きをした。相手の言葉を飲み込んで、じっくりと理解しようとするときの先輩の癖だ。
凡そ半年にも満たない関わりの中でも、彼女の性質を記憶の海から掬い上げることができる。それが誇れることなのかどうかはわからないけれども、人間関係に於いて背水の陣で挑むのは些か憂慮が残るものだ。先輩の声に、或いは瞳に潜んでいるそれを、確かに捕えたと感じた日のことは今になっても忘れることはできない。
「……うん。一佳ちゃんも、他の一年生も、みんな強いのはわかってるの。今までヒーロー科で無為に過ごしてきたわけじゃないのも、ちゃんとわかってる。でもね、わかってても、心配ってするものだよ」
そう言って私の手に触れる先輩の表情に、思わずそっと息を呑む。林間合宿が終わって家に帰った時の、母と同じ顔をしていたからだ。
数ヶ月の付き合いのなかで、先輩の性質は大凡理解していた。素直で情に厚く、真っ直ぐで、懐に入れた人間を疎かにはしない誠実さのあるひと。
先輩は、もし仮に私がヴィランに堕ちてしまったとしたらきっと激昂するし泣きもする、もしかしたらこの世のものとは思えないような恨み辛みをぶつけてくるのかもしれない。けれども、最終的には全てを許してしまう。そんな一面がある。聖母というにはあまりに人間味に溢れて俗っぽいけれども先輩はそれに似ていた。あまりにそれは人間の甘さや弱さを助長させる。
「先輩、心配掛けて、すみません」
「……ううん。わたしもね、自分が心配性なのわかってるの、だから、ごめんね」
薄らと目尻を濡らしながらも微笑んだ先輩の表情に、今度は心臓がきゅっと縮こまるような感覚をおぼえた。些細なことですぐに謝る癖もある。けれども、彼女のそういうところが愛おしい。
表情が豊かな割に大事なことは滅多に言葉に出さず、自分のなかだけでぐるぐると考えてしまう彼女を、守りたいと思ってしまった。それをきっと本人は必要としていないし、望んでいないのもわかってはいるけれども、それでも。
「ありがとう、ございます」
両手を伸ばして、先輩のてのひらにみずからのそれを合わせる。うん、と答える彼女のてのひらはほんのりと温かかった。