髪を攫った風が、いつの間にか冷たくなっていたこと。青々としていた緑が色を変え地面に広がっていたこと。クリーニングに出していたブレザーを再び羽織るようになっていたこと。
ふと気づいたときには既に季節は巡っていた。急いでいるわけでもないのに、いつも振り返ってしか見えない事実と自分。肩越しに覗き込んだその風景を記憶し、そっと正面を向いた。
私は呆然と立ち尽くしていた。
視線の先には花壇の中でコスモスが数本、くしゃりと繊い茎を折り曲げ土に埋もれていた。私はスカートを折ってゆっくりとしゃがみこみ、土にまみれて茶色く汚れた花弁をそっと指で摘んで、秋に花を咲かせるこの花の花言葉はどんなものだったっけ、と考える。指に伝わるのはざりざりとした土や砂の感触ばかりで、本来の花弁が持っていたであろうすべらかな触り心地はわからない。重箱の隅をつつくような心持で頭のなかの引き出しをすみずみまで探ってみたけれども、コスモスの花言葉はついぞ思い出すことができなかった。
誰かがストレスの捌け口にでもするために踏み荒らしたのか、はたまた野良猫が戯れに弄り回していったのか、原因は判然としないけれども、正直そんなことはどうでもよかった。たとえば仮に犯人とされる人物を見つけたとして、心が籠もっていようと形式だけであろうと謝罪を受けたとして、けれども、きっと鮮やかで瑞々しく健やかな花弁を風で揺らしていたであろうコスモスが生前のそれのように蘇ることは、割れた卵が決して元に戻ることがないことと同じくらいにありえない。だからこそ、無残に杜撰で不当な扱いを受けたコスモスの花の残骸を見て、すこしだけ、ほんのすこしだけ、悲しい気持ちになってしまった。こんな顛末を迎えるために咲いたわけではないだろうに。
「あれ、ねじれちゃん?」
花壇の前から動けないままでいる私の名前を呼んだのは、2年前にコスモスの花言葉を私に教えた張本人であるちゃんだった。
こんなとき、普段であれば真っ先に返事をして笑顔を向けるけれども、今回ばかりはいつもどおりにはできそうもない。それを察したのか、僅かに首を傾げながら近づいてきたちゃんは私の視線の先を追って、おおよその状況を理解したらしかった。しゃがみこむ私の隣に立って、土にまみれたコスモスの残滓を改めて視認するちゃんを見上げると、その痛ましさに対してか、ほんのすこしだけ眉間に皺が寄るのが見えて、滅多に見られない悼むような表情をぼんやりと眺めた。
「……ひどいね」
「うん、私が来たときにはね、もうこうなってたんだよ」
ちゃんはぽつりとそれだけを呟いて、私の隣で膝を折った。茶色く汚れたコスモスに手を伸ばす姿が、やけにスローモーションのように見える。萼から取れた花弁をそっと指先で撫でて、ぱちりとひとつ瞬きをした。ふわふわと風に靡いて揺れる髪と同じ、オレンジ色の睫毛が震える。
ひどい。たったひとこと、そのなかに込められたありとあらゆる感情の糸は毛玉のように絡み合っていて、あるいはその絡み合った糸をするりとリボンを解くように解消できるすべがないものかと思考を巡らせてみたけれども、花言葉さえも思い出すことのできない今の私に、まともな回答は見出せそうにもなかった。
「――、」
「え?」
すっと目を伏せ、なにかを呟いたちゃんがコスモスの残滓に広げたてのひらをかざす。うまく聞き取れなかったそれに訊き返したとき、私はちゃんのてのひらがかざされたコスモスを見てはっとした。
ちゃんのてのひらから、きらきらとプリズムのような光が散った次の瞬間、ぐにゃりと折れ曲がっていたコスモスはみるみるうちに頭をもたげていく。逆再生でもかけたかのように蘇生したコスモスは、先程まで残骸だったのが嘘かのように健やかな出で立ちで、けがれない白の花弁を風に揺らしている。
「ちゃん、これ、」
「……ほんとうはね、あんまりやっちゃだめなことなの」
だから、ひみつだよ。そう言ってコスモスにかざしていた手をそっとどけたちゃんは、すこしだけ眉を下げてひっそりと微笑んで、口元に人差し指を当てた。ぽっかりと口を開けていた私は、その表情にぐっと言葉を呑む。
クロロフィルは植物の葉っぱに含まれる緑色色素だ。別名葉緑素と呼ばれて細胞の中の葉緑体に存在しているクロロフィルは、光合成に関わる物質で、植物が地中から吸い上げた水と大気中にある二酸化炭素からエネルギーと糖質を作り出すことができる。太陽の光によって水は水素と酸素に分離されて、水素は二酸化炭素と結合して糖質に、酸素は空気中に放出されて生物の呼吸に使われて、体内に摂取した有機物を分解して生命活動のエネルギーに変える重要な役割を果たす。今まで怪我を治す名目でしか使っているところを見たことがなかったけれども、思えばそもそもが植物への行使に適した個性なのだ。あの迷いなさを見るところ、もしかしたら、こうして花を再生させるのも初めてではないのかもしれない。
知っていた、つもりだった。今までずっと見てきたつもりだった。それでも、出会って3年に及ばない私がちゃんについて知らないことはまだまだたくさんあって、こんなふうに彼女の知らない部分を見つけるたびに、嬉しさと、ほんのすこしの悔しさを覚えてしまう。天喰くんは、ちゃんのこういうところも知っているのかな、知らなければいいのにな、なんて。可愛くのないことを考える。既に形の決まっている関係性と張り合うことで得られる有益なんて、たったひとつもないくせに。
2年前、教えてもらった花言葉はなんと言っただろうか。あんなにも可愛い表情で熱弁していたちゃんの言葉が思い出せない。
「……『優美・美麗・純潔』だよ」
「え?」
「白いコスモスの花言葉」
そろそろ帰ろうか、と立ち上がったところでちゃんが舌に乗せたのは、私があれだけ記憶の引き出しをひっくり返しても思い出すことのできなかったコスモスの花言葉だった。
このコスモスのように、記憶のなかのちゃんと関わりが強い花が咲くたびにこんな思いをさせられたのではたまらない、とも思うけれども、この恋心がなくなっては彼女のあかしが消えてしまう。それを知っているから、いまだにこの立ち位置で足踏みを続けているのだ。
それでも、と私はひっそりと舌の端を噛む。足元に転がる甘美な思い出の数々に、まだ別れは告げられそうにない。