ペールブルーに沈む



「ねじれちゃん、おはよう」

 朝、教室に向かう廊下の途中で鈴の転がるような華奢な声が私の名前を呼んだ。私はぱっと笑みを浮かべて振り返る。

ちゃん、おはよう!」

 私の挨拶にふわりと表情を緩めて、ちゃんが隣に並んだ。彼女がひとりでいることは割りと珍しい。大抵は幼馴染みふたりのうちどちらかが一緒にいるからだ。当該のふたりのことを、私たちの学年内では密かにセコムと呼んでいる。ねえ、今日はどうしてひとりなの、と訊いてみると、一瞬の間が空いて、ふたりとも職員室に用があるんだって、と返ってきた。
 もしかしたらインターンの話かもしれないね、とも言われたところで、そういえば、と先程の違和感について思い至る。

「ねえちゃん、天喰くんとなにかあったの?さっき少し間があったよね?ねえ」
「……えっ」

 ちゃんは私の質問にぱちりと一瞬目を丸くして、一拍置いて、そしてぶわりと顔を赤く染めた。その様子にかわいいな、と思いつつも大凡の現状を把握する。

 彼女の幼馴染みのひとり、天喰くんは私の知る限り、私と彼らが出会ったときには既にちゃんのことが好きであったように思う。おおよそ一年は前のことになるけれども、彼女のもうひとりの幼馴染みである通形に切り込んで訊いてみたところ、「環がを好きなのは小学生の時からだよ、本人は無自覚だけどね!」とのことなので、当人たち以外には暗黙の了解レベルで周知の事実らしかった。要するにだだ漏れである。
 私からして見れば、ちゃんも天喰くんのことが好きなのだとわかるものだけれども、ふたりともどこかしらズレているために、いまの今まで奇跡的なすれ違い通信をしていたようだった。逆にすごいと感嘆せざるを得ない。
 ここで天喰くんにヘタレだとか及び腰だとか言えないのは、彼がノミの心臓だとわかっているからに他ならなかった。大凡、咄嗟に出た告白で、関係性を崩すつもりなどなかったに違いない。思慕の相手が十余年も親交を深めてきた幼馴染みなのだから、尚更。

「……え、えっとね、実は、その、環くんと付き合うことになって、」

 ぽっぽと赤らむ頬に両手を当てながら話すちゃんは恋をしている女の子の顔そのもので、文句なしに可愛らしかった。いや、彼女が可愛いのは元々だけれども、殊更に、という具合で。天喰くんがちゃんを選んだのも頷ける、彼女の可憐さは同性から見ても非常に魅力的だ。
 ちゃんはたいへんな努力家で、そしてとても真面目な女の子だ。授業中に居眠りをしているところなんて見たことがないし、教科書はきれいだったけれども端のほうには何度も何度も頁を捲ったであろう痕がついていて、どの教科のノートにもきれいな字で板書を逃さず書き留めていた。個性にしたって、ちゃんの個性は有用性と危険性がやじろべえのように絶妙なバランスを保った上で成り立っていて、それを緻密で精確なコントロールで制御できているのは、一重に彼女の努力の賜物だ。わたしたちの学年はリカバリーガールよりも頻繁に、ちゃんの“クロロフィル”による治癒を施してもらうことがある。彼女の陽だまりのような性格をよく顕した、きらきらしていてあたたかな個性だ。ちゃんのてのひらはいつだって、やわらかくてあたたかい、こころまで包み込んでしまうような慈愛のあるそれは、聖母マリアを彷彿とさせる。

「そうなんだ!よかったね、おめでとう!」

 私の言葉にちゃんは頬を緩めて、すこし照れたように微笑んでありがとうと言った。その鮮やかな笑顔にちくりと心臓が痛むような感覚をおぼえたけれども、なにを今更とみずからを諌めて笑みを返す。慣れたものだ。

 ちゃんのことが好きだった。真直ぐに伸びた背筋も、ふわふわとやわらかな髪から覗く耳のかたちも、その髪の陽だまりのようなオレンジも、きらきらと輝く翡翠の瞳も、なにもかも。
 ちょうど三年ヒーロー科の教室が目前に差し掛かった。頬から下ろされたちゃんの手をそっと握る。いつだってちゃんのてのひらはあたたかい。私には未来視の個性もサイドエフェクトもないけれども、その優しいあたたかさに、彼女に訪れる安らかな未来が瞼の裏でちらつくようだった。
 天喰くんがどういった胸懐でちゃんと対峙しているのかを知る術は私にはない。けれども、ちゃんを見ればわかってしまう。天喰くんが、結ばれるべくしてちゃんと結ばれたことが。

「ねえ、ちゃんは幸せになるよ、見えるから」
「うん。……ね、わたしにも見えるよ」
「なあに?」
「ねじれちゃんが幸せになる未来」

 ちゃんは天使のような笑みで悪魔のようなひどい予言をする。彼女は優しく残酷だった。ずるい、これじゃあ、忘れられなくなってしまう。ああ、好きだった、なんて。いつまで経っても思い出す。自分ではない誰かを想うとき、心臓が優しく撓る心地良さを。
 うん、とだけ返事をしてふと窓の外を見遣ると、空は澄みきった青空で、時折ゆったりと雲が流れている。
 目を伏せて、そっと左胸に手を当てて、ほんの少しだけこの恋を呪う。