自分を囲う世界の狭さを知るのは、きっとずっと先のことだ。今は手を伸ばせば掴める範囲のものだけに目を向けて、ときどきの笑顔とときどきの涙を同じ場所に置いておくだけのこと。当たり前にそこに流れる空気も笑顔も、言葉にさえ疑いの眼差しを向けたことはなく、それこそが自分にとっての最大の財産であり価値を見出す唯一のものであると自覚する。
そしてそんな世界は、たとえば慣れた通学路で偶々お気に入りの音楽が流れてくるような軽快さをもって色を違えていくのだ。
「あ」
思わずといった具合で口の端からぼろりとこぼれ落ちた音に、しまったと慌てて口を噤んだけれども時既に遅し。廊下の前方、反対方向からこちらに向かってきていた天喰先輩と、もうひとり。合計よっつの瞳とばっちり目が合ってしまった。
「……君は、ミリオの」
「あっ、はい!緑谷出久です!」
「わあ、きみが緑谷くん?」
スラックスのポケットに両手を突っ込んだ相変わらずの出で立ちな天喰先輩の言葉に背筋を伸ばして思わず名乗ると、天喰先輩の隣に立っているもうひとり……先輩がぱっと表情を明るくさせた。その見るからに今にも色とりどりの花が飛びそうな喜色を満面に孕んだ笑顔に、きゅっと目を細める。ま、眩しい。
「初めまして、緑谷くん、です。ミリオからね、話は聞いてたの。体育祭もVTR見たよ、すごかったねえ」
「えっ!?あっ、ありがとうございます……!?」
知ってます、とはさすがに言えなかった。身体は大丈夫なの?これ食べる?とふわふわ笑いながらブレザーのポケットから取り出したこんぶ飴とバター飴(チョイスが渋い)を、受け皿の形にした掌にばらばらと落とされる。「えっ、あ、ああああありがとうございます」「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいんだよ」すこし困ったように笑われてしまった。ああ、なんでこんなに吃ってしまうんだ僕。穴があったら入りたい。いや、いっそ埋まってしまいたい。
「この間授業にお邪魔したときは、インターンの子たちがいなくてね。だから、ちょっと残念だなって思ってたの」
「あ、その、僕も気になってたんです!かっちゃんに勝ったって、」
そう、丁度僕たちがいない時に先輩がA組の授業へ出張してきたという話を聞き、折角先輩の個性を間近で見れるチャンスを逃してしまったと落胆したことは未だ記憶に新しい。なにせ先週の出来事だ。
飯田くんや上鳴くん曰く、かっちゃんと互角どころか圧倒的な完勝であったという話だったから、気になっていたのは嘘でもなんでもない。個性のことも多少は聞いたけれども、又聞きよりもやはり本人と直接話をしてみたいと思っていたところでこの邂逅だ。神の思し召しだろうか、とつい手に力が籠る。
「ううん、勝ったっていうか相性が良すぎたっていうか……、爆豪くんからしたら相性が悪かったって言うべきなのかなあ」
「相性……、ですか」
「うん。緑谷くんはパワープレイヤーだから、基本的にはどんな相手とコンビを組んでも、戦うとしても強いと思うよ。わたしも基本的にはパワータイプなんだけどね、わたしの場合、太陽の個性を使うときって、自分の周りにエネルギーをオーラみたいに漂わせてる状態にしてることが大半なの」
漂うことを表現しているのかひらひらと掌を身体の周辺で動かしながら「本来は、空気の揺らぎで相手の動きを見て、次の行動を予測しやすくするために使ってるんだけどね。爆豪くんみたいな爆破の個性だと、こっちがその特性を邪魔しちゃうから、まず攻撃が届く前にかき消しちゃうのね。だから共闘にも向かないし、戦う相手としても相性悪いかなって」困ったように眉を下げそう言った先輩に、僕は今ノートが手元にないことを後悔した。
体育祭のとき麗日さん向けの対処法を考えたときのような、明け透けに言ってしまえば机上の理論ならばいざ知らず、実際に実行し得て尚且つ勝利を掴むことのできるかっちゃんの爆破個性への対処法なんて、そうそうあるものではないと思っていた。けれどもそうではなかった。
やっぱり、先輩ってすごい。通形先輩の言葉を少し借りるのならば、知識と経験の差、とでも言うのだろうか。それをまざまざと思い知る。突きつけられる、年季の差。けれどもそこに憂慮などなかった。もっと頑張らなくては、と息巻く気持ちが胸のうちでじわじわと高まっていく。
「……さんは、個性も輝かしいよ。広範囲の敵制圧にも長けているし、市街や水場に関わらず救助にも向いている。文字通り、太陽みたいだ」
「んん、環くんのは贔屓目入ってるからなあ……」
「そうか、先輩の個性は熱だけじゃなくて自分の身体を中心核として外層大気であるコロナまで再現できるんだ……ガスの塊である太陽の光球表面はそれより外側では散乱が起こらずに光が自由に外に出ていけるようになる面でつまり最終散乱面として定義されているから……その運動エネルギーを自身から発しているということは先輩の活力源はきっとダムのようなもので貯蓄も膨大な容量が必要……、先輩の個性は複合型だって聞いたんですけど、エネルギーの活力源も個性からですか?」
顔を上げて先輩に視線を向けると、くるりとまるい眼を更に丸くさせていて、その表情にハッと我に返った。どうやらまたやってしまっていたらしい。先輩の隣にいる天喰先輩に至ってはやや引いた表情だ。ざっと血の気が引く。
「……ええと、うん、複合型っていうか、轟くんみたいに、ご両親の個性をそれぞれ別個に扱える……って言った方が、近いのかもしれないね」
「"太陽"と……"クロロフィル"、でしたっけ、」
「うん、浴びた太陽光を体内で光触媒エネルギーに変換して、細胞の超活性で怪我を治したりとか、コロナの運動エネルギーに回したりとかね。普段は殆ど治癒にしか使ってないんだけど……」
「さんの治癒は、リカバリーガールのそれと違って対象の体力を消耗しない。戦線の中でも存分に使える、すごい個性だ」
「環くん、話が脱線するから……」
天喰先輩は先程から先輩のことしか話していなかった。贔屓目という言葉、その距離感と雰囲気に、交際しているのは本当なんだと思い知らされて、特にあまやかさを醸し出しているというわけでは決してないというのに、なんだか見ているこちらが気恥ずかしくなってくる。苦笑しながら天喰先輩の腕を軽く引いた先輩は結局、「実のところ、わたし屋内戦闘にはあまり向いてないんだよね」と言葉を濁した。言いたいことはなんとなくわかる。僕も今となっては出力調整をある程度できるようになったけれども、雄英に入学して、ヒーロー基礎学で初めての屋内戦闘訓練を思い出す。100パーセントの全力スマッシュでビルの天井をぶち抜いた時だ。
クロース・クォーター・バトルのような屋内戦闘に於いて、建物の倒壊などはできるだけ避けること。それがパワータイプにとってどれだけ難しいことなのか。あるいは先輩も、僕と同じように個性のコントロールで苦心を強いられてきたのだろうか。
「ヒーローは現場を選べないし、相手取るヴィランを選ぶこともできない。でも、相手が自分にとって不利になるかもしれない個性や地の利の持ち主だったとしても、それは戦わない理由にはならないよね」
だから、今雄英で訓練してるわけだし。と眉を下げうすく微笑む先輩の表情は凪いだ海のように穏やかだ。こんなにも優しそうなひとだってヒーローを目指しているのだ、僕だってもっと頑張らなければ。
「ね、緑谷くん。君にこんなこと頼むの、酷かもしれないけれど。……ミリオのこと、よろしくね」
「えっ……」
通形先輩とふたりが幼馴染みであることは知っている。なにせ当人から話を聞いていたからだ。天喰先輩とは小学校三年生のときから、先輩とは産まれたときから、ずっと一緒なのだという。長い長い付き合いのなかで今もなお一定の温度で穏やかさを保ち続けていることを、自分の苛烈な幼馴染みを思い起こしてほんのすこしだけ羨ましいと思ってしまった。
だから。僅かに寂寞のひそんだ声で放たれた言葉に、思わず身体が強張った。肌に触れる空気がひやりとする。
「……ミリオは、絶対に無理をするから、助けてやってくれ」
ふたりの表情と懇願するような声に誘発されて、いつかの母さんの言葉が脳裏に蘇った。
「応援はするけど、それは心配しないってことじゃないよって言ったよね」それは、今まで散々されてきた心配をないがしろにしていた僕の不誠実が招いた痛烈な失態だった。寂しがりな母さんが一度として寂しいだとか悲しいだとか嫌だとか愚痴を零して僕を困らせたことがなかったのは優しさでも遠慮でもないことは知っている。強がりだ。それなのに、既に聞き飽きているであろう気休めを繰り返してやり過ごしていた。ごめんね。大丈夫。気を付けるよ。今思えば、どれもこれも免罪符には程遠い。
無個性でもヒーローになりたいと思ったとき、オールマイトから個性を受け継ぐと決めたとき、USJで敵連合に襲撃されたことがニュースで放映されたとき、きちんと理解したつもりでいた。向き合ったつもりでいた。けれども、実際にはなにひとつとしてわかってはいなかったのだ。信頼をしていないというわけでは決してない。それでも、親という存在は、どこにいても、なにがあっても、子を想い、心配し、愛し続けるものなのだと。
不意に、泣きそうになってしまった。
ふたりは、きっと通形先輩のことが心配で、大切で、愛しくて仕方がないのだ。それは静謐な湖面に小石を投げ込んだ波紋のようにじわりじわりと沁み入って、言葉に表せないなんだかよくわからない感情がぶわりと胸中を占める。
「もちろん、無理しちゃだめだよって、緑谷くんにも言えることだからね」
先輩がまるで母親のような顔をして僕の傷だらけの右手に触れるものだから、喉の奥からせり上がる感情に任せて力を込めてしまわないようにと細心の注意を払いながら先輩の手を握ると、いよいよ抑えが効かなくなってしまった。目頭があつい。泣きそうだ。
「すみません、……ありがとうございます」
喉の奥から絞り出した声は、自分でもはっきりとわかるくらいに震えていた。次いで吐き出す呼吸そのものが震える。敬意を示すかのように頭を垂れて、それから顔を上げられないのは、情けない顔を見られることが恥ずかしいからではない。けれどもその弁明を口に出す余裕などない。
ちいさく呟いた前者の言葉は、聞かれることなく空気に溶けて消えたはずだった。はずだったのに。
「ふふ、なんで謝るの」
その声に含まれた慈愛の色に、ずっと我慢していた胸の奥の奥の奥に潜んだ熱が瞳から零れ落ちるのを、先輩はひどく穏やかな微笑みで受け入れた。
まるで祈るように先輩の手を握り締めて立ち尽くす僕の肩を天喰先輩がやさしく叩いて促してくれたのは、ありがたいことに濡れた頬が乾いてからであった。