「環くん、もうお昼になっちゃうよ」
小鳥のさえずりのようにやわらかく響くきみの声は、春の日向みたいにあたたかくて心地いい。ずっとそばで聴いていたいくらいだ。ただ、俺はまだ眠たくて目を開くことができない。眉間にぐっと皺を寄せ、「うん」と不機嫌ぶった声を漏らしながら、シーツにぎゅっとしがみつく。
しゃっと小気味よくカーテンのフックがレールを滑る音が聞こえた。途端に、真っ暗だった視界が急にオレンジがかって明るくなる。先月買った藍色の遮光カーテンによって止められていた時間が一瞬にして俺に現実を投げかけてくる。朝だよって。起きなさいって。俺は仕方なく、接着剤でも付けられたみたいに剥がれそうにない瞼を無理やり持ちあげた。
窓の外から差し込んでくる眩しい光と、その前を横切るシルエット。ぼやけてゆらゆらと滲む視界が次第にゆっくりクリアになって、目に飛び込んできたのは、優しいさんの笑顔だった。
「環くん?起きた?」
そう言って微笑みながら、俺の前髪を軽くよけて、おでこをこつんと触ってくる。ここ最近、俺を起こすときの彼女の癖。なぜかおでこを確認してくる。俺はそんな彼女の癖にはもう慣れていたけれど、いつものルーティンで「ううん」と首を振り、嫌がるそぶりを見せた。その拍子に前髪がまたおでこにかかってくすぐったい。
「起きて、環くん。シーツ洗いたいよ」
「……先週も洗ったのに今日も洗うのか」
「洗うの。ほら、大事なお休みなのにもったいない」
俺が握りしめていたシーツの端を、無情にも引きはがそうと手をかけてくる冷酷非道なさんに、俺はさらにかたくなにぎゅっと力を込める。それに僅かばかりむっとして、また彼女が引っ張る力を強くする。その繰り返し、無駄な攻防戦。しばらく続けた後、目を見合わせて笑った。寝転んで横向きになった俺の視界に、彼女の笑顔がきらきらと煌めく。
「大事な休みだからこそ、もっとゆっくりしていたいんだ。…… だめか?」
シーツの海から腕を抜け出して、彼女の首の後ろに回す。少し引き寄せると、戸惑いと照れが混ざったように彼女の眉尻がきゅうと下がった。
「だ、だめ……」
俺を起こして嬉しそうなさんの表情も、シーツの引っ張り合いで楽しそうなさんの表情も、俺のお願いに戸惑って照れたようなさんの表情も。どんな表情もすべてが可憐で、その一瞬すら逃したくないくらい愛しくて。
朝から食べてしまいたい。さんの頭からつま先まですべて。きっと俺しか食べられないだろうから、余すことなくぜんぶ、俺ならおいしく召し上がれると思うんだけれど、きみはどうかな。こんな俺のことを「環くんのばか、変態」って笑うかな。
窓から少し流れてくる春の風が、爽やかに彼女の髪をすくいあげる。その下の首筋にかけた手で、もっと彼女の身体を引き寄せた。
たとえば、そのさらさらふわふわした綺麗な髪だったり、その白く細い手だったり、春らしい淡いラベンダー色のニットだったり。シャンプーも、ハンドソープも、柔軟剤も、きみと俺から同じ匂いがすることが、なんだかとてつもなく幸せなことのように感じられて、まるで世界が羨む奇跡の出来事のように思えてしまってならない。こんな俺はきっとどうかしている。
「もう少しでいいから、俺と一緒に寝てくれないか」
もうひとつの手で、彼女の細い手首を握りしめて引っ張った。彼女の身体は綿菓子のように軽くて、やわらかくて、ふわりと飛んで跳ねるみたいに俺の隣に寝転んだ。俺は目論見どおりの展開に満足してさんをぎゅっと抱き寄せた。その瞬間に包み込んでくる、すっかり馴染んだふたりの匂いに、俺はかけがえのない幸せをしみじみと思い知る。
ふたりをそよぐ、春の風。キッチンからかすかに漂う甘い香り。それに加えて、目の前で微笑んでいるきみがいれば、たとえこれがなんでもないただの休日のワンシーンだとしても、俺にとって今日という日が、これ以上ない特別な日になるんだ。