毎日世界は真新しく変わっていくから、時間の流れと共に絶対に戻れない場所が生まれることに気づいたとき、この先に来る世界のために、もっと明るい未来をつくりたいのだと思った。
最近、環くんがわたしの前でも深く眠るようになった。すこし前までは同じベッドで寝ていても、彼はいつもわたしより遅く寝てわたしより早く起きていたし睡眠も浅いようだったから、心を許してくれたみたいでなんだかうれしい。
いつもみたいにふたりで同じ毛布を被って、ぽつぽつと取り留めのない話をしていたら、いつの間にか環くんは眠ってしまっていた。すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てるあどけない表情に思わず口元が緩む。めくれた毛布をそっと肩に掛け直して、なるべく音を立てないようにそろりとベッドから抜け出した。
冷えたリビングを裸足で通り抜けて、遮光用のレースごとカーテンを開けると窓辺にぺたりと腰を下ろした。ミラー調のフィルムを貼り付けたガラスフェンスのベランダは、外から中は見えないけれど内側からだとよく見える。眼下に広がる都会の景色は深夜だというのにビルの明かりやネオンで煌めいていて、舗装されたコンクリート上を車のヘッドライトがするすると滑ってゆく。三角座りをして折り畳んだ脚を両腕で抱えて膝に頬杖をついて、ただひたすらぼんやりと光る街を眺めていた。剥き出しの爪先が、フローリングの温度を吸収して冷えていく。
「さん」
「なあに？……わ、」
「そんな薄着で、風邪引くよ」
いつもより掠れた低めの声が聞こえて、ゆっくりと振り返った瞬間ふわりと肩にストールを掛けられた。“個性”の影響で比較的体温が高めなわたしは、よっぽどのことがなければ風邪を引くことなんてない。けれど、そういう特異な部分を理解したうえで心配をしてくれている環くんの優しさが、素直に嬉しかったりもするのだ。ありがとう。そう答えたけれど、窓ガラス越しの月明かりに照らされる環くんの横顔は幾分か拗ねたような顔をしている。ぴょこりと跳ねた後ろ髪の寝癖を軽く直してあげると、ばつが悪そうに目を眇めるとふいと視線を逸らした。
「……起きたら隣にないから、驚いた」
「え？ああ、ごめんね。心配させちゃった？」
「……あんまり、黙ってどこかに行かないでくれ」
ストールにくるまったわたしの肩を、すぐ隣に腰を下ろした環くんがそっと抱き寄せた。すこしだけ体重を掛けられて、凭れかかるようにこつんと頭がぶつかる。まだ眠たそうにまつげを伏せた彼の輪郭が、やわらかな影を落としていた。
「何か、見てたのか？」
「んー……、ちょっとね、考え事してたの」
「考え事？」
「この街には、世界には、こんなにたくさんの人がいるのに、環くんに会えたのは、本当に、奇跡だなぁって」
恥ずかしくて、すこしだけたどたどしくなってしまった言葉が静かなリビングに響いた。冷えた爪先を開いたり閉じたりしながら、遠くのビルの明かりを見つめる。静謐に澄んだ空気のなか、目を閉じる彼の、すう、という呼吸が、耳元をくすぐるように聞こえた。
奇跡、なんていうふわふわした言葉で表していいものかと迷ったけれども、わたしにとっては環くんと出会えたことも、お互いに想い合っていることも、こうして今隣に彼がいてくれることさえも、神の御業でもなければ成し得ない程に尊いくらいのものなのだと思っている。どうかこの幸福な日々が色褪せぬまま、時が終わるまで永遠に続いてほしい、とあさましくも願ってしまうくらいには。
「奇跡、かぁ」
「ごめんね、変なこと言っちゃった……、恥ずかしいから忘れてね」
「はは、忘れないよ」
眠たげな声が鼓膜を揺さぶる。とん、と肩が先ほどよりも近い距離でぶつかって、膝を抱えていたわたしの手を環くんはゆっくりと取った。わたしと比べるとひんやりしている雄勁なてのひらがするりと指先に絡んで、半分だけ開いたまぶたの中の黒目が夜の光にきらきらと照らされている。
「環くん」
「ん？」
「わたしも、眠くなってきちゃった」
「……そうだな、子どもは寝る時間だから」
「子どもじゃありません〜」
凭れかかる右隣に思いっきり体重を乗せて、頭をぐりぐりと擦りつけてみた。再び忍び寄ってくる睡魔に侵食されてうとうとしている声は、それでも控えめながら楽しそうに笑う。微かに漏れた吐息の余韻に浸りたくて、すこしだけ目を閉じて微睡んでいたら、ちゅ、とまぶたにやわらかな感触が落ちてきた。くすぐったいよ、と身を捩って、どさくさに紛れてぎゅうと環くんに抱き着くと、冴え冴えとした夜の冷えた空気に混じって彼自身の篤実さを如実にあらわしたような清廉で落ち着く匂いがした。
「ほら、ベッド行くから」
「うん、……ね、連れてって」
「赤ちゃんみたいだな」
「んん、言うに事欠いて赤ちゃんって……っわあ！」
ほんの冗談のつもりでじゃれついてみれば、凭れかかった時にくしゃくしゃになった髪を梳くようにして頭を撫でられて、次いで膝の裏に腕を回されてぐっと身体が持ち上がった。よいしょ、とお父さんみたいな台詞が聞こえて、思わず縋りつくように環くんが着ているパジャマの胸元をぎゅっと握り締める。こ、これは、いわゆる、お姫様抱っこってやつだ。
「た、たまきくん！重いでしょ！？」
「あのな、俺だって男だから。全然軽いし、陽日さんくらい抱き上げられる」
「え、ええー……下ろしていいよ、からだ冷えてないの分かるでしょう？」
「ああ、でも、だめだ。あと危ないから暴れないでくれ」
ぎゅう、と宥めるように抱きしめられて、恐るおそる胸元から離した腕を彼の首に回した。わたしを抱えたままカーテンを閉めてリビングから出ていく様子にも、危なげはまるでない。“個性”を鍛える延長である程度身体のトレーニングもしているのは知っているけれど、“個性”なしでここまで力があるのは想定外だった。というか、もうひとりの幼馴染がどちらかといえば筋骨隆々の部類なものだから、それに馴れすぎて感覚がおかしくなっているのかもしれない。
寝室のドアを片手で閉めて、まだ僅かに温もりの残っていたベッドの上にそっと下ろされる。早く寝て、と言わんばかりにたごまっていた毛布をかける仕草がとても優しかった。
ベッドに入ってふたりで毛布にくるまって、寝そべりながら向き合って、さらさらと前髪を撫でてくれる指先の温度が心地良い。普段の堅牢さや鋭さを感じさせる瞳はすっかり鳴りを潜めてやわらかく、視線だけで愛しさが伝わってくるようだった。
「……でも、俺は」
「え？」
「奇跡じゃなくて、必然だと思うよ」
人前では決して出さないような甘い声がそう呟いて、なんのことだろうと一瞬考えて、わたしがさっきリビングの窓辺で言ったことへの応えだとすぐに理解した。ほわりと顔が熱を持って、きゅう、と心臓が撓る。必然、って、環くんって意外とロマンチストだったんだなあ。好きだなあ。ぼんやりとそんなことを考えていたら、なんだかわたしも眠くなってきた。
「……ね、たまきくん、すきだよ」
「俺も、好きだ」
「うん。もう置いていったりしないから、だいじょうぶだよ」
「……ああ」
「おやすみなさい、たまきくん」
「ん、おやすみ」
まぶたを下ろす瞬間に、ひどく眩しそうに目を細めて口許を緩ませる環くんの顔が見えた。ああ、今日もしあわせだ。
自らの手を伸ばして求めるものを探し続けて、けれどそれは、もしかしたらわたしが思っているよりもずっとずっと遠くにあるのかもしれない。それでも、わたしはわたしがひとりではないことを知っている。どんなときも離さないで、たとえ気持ちが負けてしまいそうになっても、一緒に夜を越えてくれるひとがいることを知っている。
毎日世界は変わってゆくけれど、明日は今日の延長線上、続きにあるから、今日この腕を取ることができたなら、繋がる明日の充分すぎる保障になる。だから明日がまた幸せであれるように、幸せに向かっていることを今日も願う。一緒にいてほしい、すべて大丈夫にできるように、彼と一緒にいたいから。願わない日はないのだ。
明日はいつもより早く起きて、寝ている環くんにこっそりキスをしてみよう。寝返りを打つふりをして腕のなかに寄り添ってみたら、思いのほかぎゅうと強く抱き締められて、ついには笑ってしまった。
そう、永遠に続くものなんてない。この愛以外には。