「環くん、たまきくん」
さんはそう、まるでふわふわの綿菓子みたいな甘い声で俺の名前を呼ぶ。環くんはかっこいいね。環くんは素敵だね。環くん、だいすきだよ。俺に負けず劣らず照れ屋で恥ずかしがりなくせによくわからないところで漢気があるさんの言葉はいつだってまっすぐで素直で篤実だ。そのまっすぐさにいつだって救われていたけれども、もしかしたら心のどこかで思っていたかもしれない。誠実で素直で優しいさんがいつもいつでも頼ってくれるような、さんが思う以上に格好良い男になりたい。彼女にいつまでも「だいすき」と、日当の猫のように目を細めて、まるで花でも咲くようなたおやかな微笑みで言ってもらえるような、そんな男でいなくてはいけない、と。大好きで愛しい彼女に格好良く思われていたかった。だめな男だと思われたくなくて、嫌われたくなかった。
「環くん?」
ぬるくなった不味いビールをぐいと呷って飲み干すと、強く握ったアルミ缶がべこりと音を立てて潰れた。ぐらぐら揺れる歪んだ視界の中で、ドアの近くに立つさんが不思議そうにぱちぱちと碧い瞳を瞬かせている。薄手のコートを脱ぎながら彼女はまた「環くん」と俺の名前を呼んだ。ずしりと身体にのし掛かる重苦しい怠さと掠れて狭まった喉ではその呼び掛けに応えることも出来ずに、ただひたすらテーブルに突っ伏したまま目の前に転がった空き缶をぼんやりと眺める。心配そうに駆け寄ってくるさんの繊細な睫毛がぱちりと揺れた。
「環くん、強くないのにお酒飲むの珍しいね?どうしたの?」
「……ん」
「大丈夫?なにかあった?」
傍にしゃがみこんでそうっと優しく背中をさするちいさなてのひらは、外から帰ってきたばかりだというのにアルコールに浮かされてやや温度の上がった身体でもはっきりとわかるくらいにあたたかい。そう、どんなときでもさんの手はあたたかいのだ。ゆるゆると顔を上げると、困ったように目尻を下げる表情と目が合う。そろそろと視線を下げると、ふっくらとした唇に桜色のリップが艷やかに光っていた。
「……なんか、」
「うん」
「すこし、つかれた」
そのたったひとことを言うのに、どれだけ時間が掛かったのだろう。自分で思っていたよりもか細くなってしまった声はひどく掠れていた。吐き出した言葉は嘘でも欺瞞でもなく事実そのものなのだけれども、実際口にすると自分がひどく格好悪くて駄目な大人になってしまうような気がした。いつもいつでも頼ってもらえるような、格好良い恋人でいたかった。さんが笑顔で自慢出来るような、そんな存在でいたかった。なによりも、さんに、格好悪い人間と思われたくなかった。嫌われたくなかった。そのすべても今更、かもしれないけれども。
「たまきくん」
さんの白くて細い腕がぎゅっと背中に回されて、いつの間にか強く抱き締められていた。あたたかいてのひらがそっと髪を梳くように頭を撫でる。同い年の彼女にこんなふうに思うなんてすこしおかしいのかもしれないけれども、背中に回されたさんの腕はこんなに細いのに、まるでぐずる子どもをあやす母親みたいな、そんな触れ方にひどく安心して、すぐ傍で感じる息遣いが身体中の神経だとか細胞だとかをひとつ残らず麻痺させる。思わずちいさな身体に凭れるようにすこしだけ体重を掛けると、腕の力が更に強まった。
「大丈夫だよ、環くん。環くんは、世界でいちばんかっこいいよ」
わたし、環くんのことがいちばんすき。さんは時折思いついたようにそう言ってなぜか誇らしげに笑っていたものだった。なにを以ていちばんと言っているのか、それは終ぞ明かせなかったけれども、俺は彼女の言う「一番」の精度を信じていた。それは自信でも優越でもなく安心と信頼だった。
ぽつりぽつりと、心に浸透するようにやわらかな声が紡ぐ。すん、と鼻を鳴らすと彼女の纏う花のような甘い匂いが肺いっぱいに満たされた。抱き締められるあたたかな体温と、とくとくと伝わる規則的な心臓の音が心地良くてそうっと目を閉じる。
「でも、ね。わたしは、環くんがかっこわるくなれる場所になりたい。環くんが安心して帰ってこれる場所になりたいよ」
耳元で呟くやさしいソプラノに、凝り固まった心がほろほろとほぐれていくようだった。細い指先がゆっくりと毛先まで撫でて、ちいさく背中を叩くリズムにひどく安心した。およそ褒めるべきところのない自分自身にも、存在を許される道理はあったのだ。そして、そんな些末なことばかりを考えてしまう浅ましさもすぐに思考の外へと投げ出さざるを得なくなって、どうしようもないくらいにさんのことが好きだ、としか考えられなくなる。
「わたしは、なにがあっても環くんのとなりにいるよ」
「……はは、俺のこと、好きすぎだろ」
「うん、すき、だいすきだよ」
ね、だから、環くんは大丈夫。相変わらずちいさな子どもに話し掛けるような口調でさんはそう呟いた。
さんならきっと俺が何を言ったとしても否定することなく拒絶することなく受け入れてくれるであろうことは疑う余地もなくわかっていることだというのに、勝手に悩んで勝手に迷って、挙げ句酒の力を借りてようやく本音を零すなんて馬鹿みたいだ。けれどもその落ち着いた声色に、ぎゅっと抱き締めた細い肩に、鼻腔を擽る花のような匂いに。本当は、ずっと、ずっと甘えたかったのかもしれない。