甘夏



 うだるような暑さにすべての気力を削がれても、俺はしたたかな男子だから愛に傾ける情熱は人一倍。つい先日夏休みに入ってからずっと充電器に繋がれたままだった携帯電話を握りしめ、履歴の一番上から下までを埋め尽くしている番号に電話を掛けて、もしもしの代わりにすきだと言ってみた。なあにそれ、流行ってるの。恋に関していつでも絶頂の俺は電話越しのさんのいつもと違う声にだってどきどきする。はやってない、いま考えた、いまの気持ちを言ってみた。一応はそんな感じの答えを用意していたけれども、なんだかそのときになっていやに無粋に感じてしまったのでその代わりに会いたいんだと言ってみた。精一杯に寂寞を込めた声はなんだかそれよりも暇を持て余しているような響きになってしまったけれども、一度吐き出したそれが電波を逆走するはずもなくあっと言う間にさんの耳まで届いてしまった。しかしさんはそんなこと一向に気にしていない素振りで返事を寄越した。俺を幸せの海へと突き落とす術をしっかりと心得ている声で。うん、わたしも会いたい。

「……あつい、とけそうだ」
「そうだねえ、今日は最高記録更新するかもね」

 俺の家とさんの家のちょうど中間にある公園のベンチに二人並んで腰掛けて、誰に向けるでもなく夏の暑さに文句を言う。さんは俺の家に来ると言ってくれたけれども、いくらさんが比較的暑さに強いからといってこの炎天下のなかさんだけが大変な目に遭うだなんてとてもフェアではない。それならふたりで大変な目に遭いましょう、ということになって今に至る。いくら木陰に位置しているとはいえども空気が炎熱を帯びていて、申し訳程度に日焼け止めを塗りたくった肌がじりじりと焼け焦げていくのがわかる。
 溶ける、なんて言いながらTシャツの裾を浅く持ち上げて風を起こす俺をにこにこと笑顔で見守っているさんは平気なのか、これくらいの暑さでは溶けないのだそうだ。裾がレースのように型抜きされているラベンダー色のフレアスカートのワンピースを着て、ふわふわと長いオレンジ色の髪をポニーテールに結っているさんの表情はひどく涼しげだった。この季節の暑さに喚く俺に、さんは三日に一度はこう言う。わたしは溶けないよ、だから、環くんも溶けない。さんの言う「だから」の意味がよく分からないのは、俺の国語の成績がいまいちだからではないはずだ。

「焼肉にでもなった気分だ」
「ふふ、なあにそれ。新しいね」

 ベンチと一体化するようにうなだれてぽつりとちいさく囁けば、さんが声を上げて軽やかに笑った。楽しそうな笑みを浮かべるさんには青い空が良く似合う。もちろんさんは雨の日も雪の日も台風の日だって俺の目にはこれ以上ないくらいすばらしい彼女に映るのだけれども。ベンチにうなだれたまま、自身の恋人であるさんにうっとり見入る。

「なあに、環くん」

 訝るでもなくさんが問い、じりじりと太陽熱に肌を焼かれて焼肉気分の俺はへらりと自覚を伴うくらい阿呆な顔をして笑う。呼吸するように自然に、まるで違和感なく名前を呼ばれてしまっては笑うよりほかない。小学三年生から、つまりはおおよそ十年来の幼馴染だというのに恥ずかしい話だけれども俺はさんの名前をすんなりとさり気なく呼ぶことができない。名前を呼ぶたびになんだかよくわからないけれども身体の中心から溢れ出すいろいろな感情――すきですとかすきですとか、すきですとか――がぐちゃぐちゃになって変に力が入ってしまう。さんが俺の葛藤に気付いているとは思えないけれども、それがなんだか申し訳ない。さんはすんなりと朝の挨拶をするように俺を呼ぶ。嬉しさとこそばゆさから、阿呆な顔で笑ってしまう。

「ね、手つないでもいい?」

 唐突に問われ狼狽するもさんはおかまいなしににこにこと人当たりの良い笑顔を浮かべている。基本的に照れ屋なはずのさんはへんなところで漢らしい。俺からなにか仕掛けたときにはあたふたと狼狽えて戸惑って頬を桜色に染める可憐さを露呈しているというのに、自分から仕掛けるとなれば羞恥心というものはさして感じていないらしかった。だから「照れてる環くんがかわいくて」なんて冗談なのか本気なのかよくわからないことを平然と言ってのけるさんは、さんの可憐さにいちいち心のなかでもんどりうっている俺の心臓が今にも爆発してしまいそうなことなんて知る由もないのだ。今日もまた思惑通りに肌を染めて息を詰まらせてさんを微かに笑わせてしまった。多少の不満はあるけれども、それでも恋に関して絶頂の俺はそういうさんの平素学校では滅多に見ることのない些細ないじわるにだってどきどきする。辺りをきょろきょろと見渡して人がいないのをいいことに、返事代わりに手を差し出した。そっと五指を絡め合うように手を繋げば、なにがおかしいのかさんがひどく可憐に晴れやかに笑う。暑いね、なんてたいしてそう思っていないような口吻で言われて、俺はそうだなとだけ曖昧に笑って返事をした。

「……暑いな」
「そうだねえ、アイスでも食べたくなっちゃうね」

 今日は風がないせいで、遠くに見える雲はひどくゆっくりと流れてゆく。あの大きな丸い雲、なんだかファットみたいだ、なんてぼんやりと炎熱にあてられた頭でぼんやりと考える。ね、あとでコンビニ寄って、パピコはんぶんこしようよ、と言われたのでゆっくりと頷いた。さんはチョココーヒーとホワイトサワーとシチリアレモンのどれがいいかなあ、なんて呟いている。レモネードが好きなさんのことだから、きっとシチリアレモンが食べたいんだと思う。俺も特に異論はないから一言、レモンかな、とだけ返した。

「とけた」

 と、どさくさまぎれにさんに擦り寄ったら、わたしは溶けないよ、だから、環くんも溶けないと言ってさんが笑った。やっぱり「だから」の意味はさっぱり分からなかったけれども、それでも俺は笑っておいた。彼女の声に馴染んだ俺の名前が愛しくて、阿呆な顔で笑っておいた。