炭酸水に溶けた



「……あっ、よかった、まだ始まってない!」

 結構な距離を走ってきたのだろうか、普段そこまで息切れすることのないさんが珍しく顔を火照らせ、「ごめんね」と周囲に断りを入れながら人波を縫って左隣に立った。はかはかと荒い呼吸を落ち着かせるように胸に手を当てながら肩を上下する姿を見て、水のペットボトルかなにか買っていればよかったな、とひっそり思う。さんは代謝が良いから、普段であれば塩飴であったり黒飴だったりをブレザーのポケットに常備しているけれども、相当に急いでいたのか今はブレザーもベストも着ていない。どうやら保健室に忘れてきたらしかった。

「保健室か?」
「そう、詳しいことは聞いてないけど、緑谷くんがすごいボロボロでね。リカバリーガールでもよかったんだろうけど、ほら、1-Aってダンスとかするって言ってたじゃない?体力消耗させちゃったらかわいそうかなって、急患だったの」
「急患」

 「本人は転んだって言ってるんだけど、きっと嘘だと思う」と眉を下げた心配そうな表情で小さく頷くさんは、じきに始まるA組の出し物が気になるのか、ちらちらと頻りにステージを横目で見ている。
 ビッグ3と呼ばれるミリオや俺や波動さんと親しい仲であるからか、リカバリーガールの代わりとして保健室にいることもあるからか、あるいは放課後には図書室にいることが多いからか、本人はさして意識していないけれども、さんは後輩に知り合いが多い。きっかけは語るべくもない小さなものものだとしても、そのひとつひとつ、ひとりひとりに向き合う姿勢が強いから慕われるのだろうと俺は思っている。そういうところはミリオによく似ている、と俺が言うと、さんは「それはそうだよ、産まれたときから一緒だもん」と笑い、ミリオは「まあ、は家族も同然だからね」と笑う。さんとミリオはまるで双子のように一緒に育ってきたから、どちらがどちらに似たのか、なんて鶏卵前後論争みたいなものなのだろう。お互いがお互いに良い影響を与え合って、今の関係性を築いている。

「そういえばミリオは?エリちゃんと一緒って聞いたけど」
「ミリオなら多分、イレイザーの近くにいるはずだ」

 エリちゃんに外出の許可が下りる条件として、イレイザーヘッド、相澤先生の同伴が必要だということはミリオから聞いた。今は落ち着いているから殆ど無用の心配であろうけれども万が一、個性の暴走が起きた場合に備えているのだそうだ。
 先日、文化祭準備の最中にミリオがエリちゃんと緑谷くんを引き連れて校内をぐるりと巡回していたとき、さんもエリちゃんと初めて会ったのだという。俺はその場にいなかったけれども、ミリオの話だとエリちゃんも特に怯えることなく隠れることなく会話に応じていたらしい。別れ際には名残惜しそうな素振りさえ見受けられたという。たとえ初対面の相手であっても、どんなに人見知りであろうとも、警戒心や不安感を取り除き精神を癒やしてあげられるのはさんの十八番だ。怪我の治癒とはまた違った特性のそれは、個性の影響というよりはさん本人の性質に依るものが大きいのだろう。

 さんの身長では見えないだろうけれども、俺たちの数メートル前にエリちゃんを担いだミリオの頭が見える。その少し後ろにはイレイザーとプレゼントマイクも見えた。がやがやと周囲の話し声やざわめきに掻き消されて、なにを話しているかはわからない。

「合流するか?」
「え?うーん……、いいや」

 斜めを見てほんの少し逡巡し、ちいさくかぶりを振ったさんは拳二個分程あった距離をすいと詰めた。そして右手を伸ばして俺の左手に触れる。先程までの運動の余韻がまだ残っているのか、いつもよりやや温度の高いてのひらとそっと繋ぐ。

「だって、せっかく今、環くんとふたりでいるんだし」

 そう言って、ふふ、とほんのり頬を桜色に染めて可憐に微笑むものだから、かっ、と一瞬で顔が熱を帯びる。思わずぐっと息が詰まって、喉の奥から変な声が出た。繋いでいる手が汗で滑りそうになるのを自覚しながら、俺は顔の赤さが周囲にばれてしまわないようにそっと俯く。ほんとうに全く、さんはずるい。こんなの不意打ちだ。そんな、俺を幸せの海へと突き落とす術をしっかりと心得ている声で。
 お互いに目立つことを避けてきたから、人前でここまで距離を詰めることもそうそうなかったのだけれども、これも一種のお祭り効果というやつなのだろうか。周囲には大勢の生徒や観客がいるというのに、まるで俺たちふたりだけが外界から切り離されているような感覚に陥ってしまう。

「あ、ね、もう始まるよ、環くん」

 どうにか顔の熱を収めようと深呼吸をしながらミリオのギャグを脳内で反芻しているさなか、当のさんは楽しそうにぱっと顔を明らめて繋いだ手を軽く引いた。
 基本的に照れ屋なくせによくわからないところで漢気があるさんは、自分から仕掛けることに対しての躊躇いだとか羞恥心だとかは特に感じないらしい。こんなに俺はどぎまぎしているというのに、そんなことは気にも留めていない。俺が滅茶苦茶に、それはもうでたらめに、からだのなかを流動しているありとあらゆるエネルギーを消費して、いまにも死んでしまいそうなほど盲目的で、圧倒的な恋をしていることをさんは知らない。可愛さ余って憎さ百倍、と言うとなんだかおかしいかもしれないけれども、さんの可憐さが一周回って憎らしく思えてしまうときがまれにある。これでは俺ばかりが振り回されているようだ。なんだかよくわからないけれども、身体の中心から溢れ出すいろいろな感情――すきですとかすきですとか、すきですとか――がぐちゃぐちゃになって変に力が入ってしまう。それでも、悪くない、どころかそういうところもまた好きだと思えてしまうから恋の病ももはや重症だ。

《いくぞコラァアア》

 そんな叫び声から始まったA組の演奏やらダンスやらは文字通りの圧巻だった。それぞれの個性をしっかり生かして活かして、自己満足だけでは終わらせない、オーディエンスを巻き込んで惹き込むパフォーマンス。ケロケロさんの舌に巻かれて宙をぐるりと周る麗日さんと空いた左手でハイタッチをして、きらきらと目を輝かせ楽しそうな笑みを浮かべるさんには晴れた空が良く似合う。もちろんさんは雨の日も雪の日も台風の日だって俺の目にはこれ以上ないくらいすばらしい彼女に映るのだけれど。

 辺りをさっと見渡して、周囲がこちらを気にしていないのをいいことに、身を屈めてそっと触れるだけのキスをすれば、ぽかんと目を瞬かせたさんは一拍置いたあと、一瞬でぶわりと顔を赤く染めた。その表情に先程まで感じていた僅かな憎らしさは完全に霧散した。いまの俺はなんだか炭酸水にでもなった気分だ。正確には、炭酸水の泡の気分。なんだかよくわからないけれどもそんな気分。胸からじわじわと溢れ出すさんへの思い――すきですとかすきですとか、すきですとか――がじわじわと喉元に張り付いて苦しい。炭酸水の俺は、キスをした姿勢から自然体に戻して、じっとこちらを見上げるさんを見つめる。さんがいつもそうするように、俺の瞳からもビームがビビ、と出ればいい。好きとか好きとか好きとか、好きとかの感情と辺りの空気と一緒くたにして、ビビ、と。

「……そういうの、ずるいとおもう」

 ずるい、だなんて。それは俺のセリフだ。
 赤い顔のままふいと目を逸らしてステージに視線を遣るさんの小さなてのひらは俺の雄勁なてのひらに誂えたように納まって、俺は今度はなんだか炭酸水に溶けた氷の気分になってしまった。どろどろに溶けて、蒸発しましてさようなら。

 それでも。どんなに会場が熱気に包まれても周囲が観客の歓声に沸いていても、繋いだ手だけはずっと離さなかった。