希う



 寝ても覚めても気がつけば彼との思い出に溺れている。その逐一にカメラを構えていたらきっとたいへんなことになっていたに違いない。残しておきたいシーンが多すぎて、写真やフィルムでわたしたちの住んでいるワンルームは足の踏み場もないほど混沌としてしまうことだろう。

 ぱちり。いつものように目が覚めて、ころりと寝返りを打つと、隣で眠る環くんはまだぐっすりと夢の中にいるようだった。ちらりとサイドボードにある時計に目を向ける。七時半。ニチアサキッズならこれくらいの時間は普通だろうけれども、生憎と見るテレビ番組の予定もない人間が休日に起きるにしては、些か早すぎる時間だ。
 休日の朝独特の、緩やかで穏やかな空気が流れている。振動を起こしてしまわないようにゆっくりと起き上がってそっとカーテンを数ミリ開けると、外は爽やかすぎるくらいの晴天だった。この時期なら、桜も綺麗に見れるかもしれない。

「蝶々さん……は、まだ早いかなあ」

 誰にともなく呟いた言葉は窓ガラスにぶつかって落っこちた。いつもであればベッドから抜け出した後リビングに向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れるところだけれども、ほんの少し逡巡して、わたしはぱたりと再びベッドに身体を横たえる。身を起こし大気に晒されたことで、先程まで体温を移していたシーツは僅かに冷えていた。もぞもぞと身動ぎをしながらたごまっていた掛け布団を肩までかぶる。
 特に大層な理由があったわけではない。けれども、なんだか今日は、いつもとほんの少し違うことをしてみたくなった。

 身体も脳もすっかり起床体勢に入ってしまっているから、ベッドのなかで目を閉じてみても眠れそうにはないことはわかっていた。だから、平日には滅多にじっくりと見る機会のない環くんの寝顔をじっと眺めてみる。シャープな頬にそっと指を這わせてみると、意外と弾力があってびっくりした。男のひとの肌って、なんでこんなに荒れとは無縁そうなんだろう。わたしも別にばっちりメイクをすることはそうそうないけれども、環くんみたいになにも手入れをしていないのに綺麗な肌が少し、ううん、だいぶ羨ましい。
 まるで母親の腕の中で安心しきって眠る赤子のようなあどけない寝顔の環くんを前に、ぱちり、と心のシャッターを押下した。またひとつ、思い出してはにやにやしてしまう要素が増えた。いやな夢を見たと言って寝起きに抱きついてくる繊細さも、過去に一度だけしたおおきな喧嘩をした後に彼がぽつりと零した愛の告白も、マンションの駐車場でひっそりと交わしたキスも、それをこっそりと覗いていた野良犬の黒い瞳も、なにもかも昨日のことのように思い出せる。少しでも気を抜けば環くんとの思い出に浸る悪い癖がついてしまった。幸福とは得てして甘美なものだ。
 頬に触れていた指を髪に移す。硬そうに見える髪は存外柔らかい。寝癖のついた部分を梳くように撫でると、んん、と環くんが唸った。普段は前髪で隠されている眉間に僅か皺が寄って、思わず手が止まる。ついでに息も止まった。
 メデューサにでも睨まれたかのようにびったりと静止して動けないわたしをよそに、環くんは寒そうにふるりと身震いをして、あたたかいものにくっつこうとしたのかわたしの身体に手を伸ばした。

「わ、」

 ぐるりと背中まで腕が回されて引き寄せられる。ぴったりと身を寄せて、収まりが良いところを探しているのか首元に顔を埋めるように押し付けた。そしてまた眠りに就くのかと思いきや、ううん、と再度唸った環くんはぴくりと体を揺らして、ゆっくりと眠そうな瞼を持ち上げた。

「おはよう、環くん」
「……、さん、おはよう」

 そっと先程のように頬に手を添えて笑いかけると、寝起きで焦点の合わないふわふわとした視線と目が合う。思考が働かないままゆっくりとした瞬きを繰り返す気の抜けた環くんの表情に、またぱちり、と心のなかでシャッターを押した。

 わたしたちふたりの関係になんの不安要素も解決を要される問題もないと言えば真っ赤な嘘になる。程度の過ぎるものではないとはいえ価値観の差異はある。露呈してもいいものか迷う自分の感情を腹の内に隠すことに、どうしようもなく辟易してしまうこともある。けれどもここに至るまでの間、等間隔に刻まれる時計の秒針が進む音を聞きながら、これは環くんと歩んでいる恋路そのものだと考えていた。辺りは暗くて、おぼろげにほんの少し先が見えて、ゴールは不明で、けれどもなんの恐れもなくひたすら前に進んで。カーテンの隙間から照らし出す、ひとつ先の未来に進みながら、ひとつ前の未来を超えながら。こんなふうに、ずっと。

 いつもと、ほんの少し違うこと。
 せっかく外が晴れているのだから、午後はそっと手をつないで穏やかな街を歩いてみてもいい。けれども、まずは、このままベッドに横たわってやわらかなシーツにくるまって、ふたりで他愛のないことを少し話していたい。
 眩しい朝も星の降る夜も、環くんに伝えたいことはそれこそ山のようにたくさんある。環くんがわたしの髪や頬に触れてくれること、わたしの名前を呼んでくれること、ただそれだけで、鬱屈とした闇に満ちた暗い心も忽ち明るくなるんだよ、って。それで、今日も明日も環くんに好きだと言えたらいい。ふたりで一緒に過ごす同じ時間を幸せだと言えたらいい。

「……ね、なんでもいいよ、おはなしして」

 窓の外からは何羽もの雀のかわいい鳴き声が聞こえる。けれども、不思議そうに首をかしげながらもひどくやわらかに目元を緩める環くんのあまりの愛おしさに、空に向けるカメラなどない。