「俺は、大丈夫だよ」
ぼてり。真っ白な廊下に声が落ちた。俺はなにも言えなかった。
人生のおおよそ半分以上の年月を捧げ続けてきた個性だというのに、それにしてはあまりにも凄惨すぎる結末だった。それなのに、涙も許されない、そんな意識的な雰囲気が辺りには漂っている。ピリピリ、と。あまりベタベタここに触れるな、と。ミリオがすぐ泣くさんを牽制しているつもりなのだろう。
その牽制も意味はなく、さんは少しだけ泣いた。無意識に流れたらしいものだったから、それはただの生理現象なんじゃないかと思うくらいだった。ばかだな、とミリオが困ったように笑ってわざとからかうから、目にゴミが入ったの、と言い訳をする。すこしくらい感傷的になってしまうのもわかってほしい。さんが泣き虫なのは、俺よりも誰よりもずっとずっと長くそばで見てきたはずだ。俺と出会う前にふたりが共有してきた時間を知らないことはどこか悔しいと思ってしまうけれども、一番近くでさんを見ていたのは紛れもなくミリオだ。
ミリオはいつもそうだ。飄々と感情をすっかり隠してしまう、隠せてしまう、それだけの力を持っている。そういう演技だけは昔からいっぱしに上手かった。本当は誰よりも執着深いくせに、それを決して表には出さない。
そんなミリオの一部分が俺は一時嫌いで仕方なかった。なんでもかんでもうやむやにされてしまったような気がしてきたから。大したことない、と大したことあることも見なされてしまっているような気がしたから。
そのくせ誰よりも神経質で気を遣うのだから質が悪い。それなら辛いときはすこしくらい弱いところを見せて甘えてくれればいいのに、甘えてほしいのに。男というものはちっぽけな挟持が邪魔をして人前で泣いたり弱音を吐露することに抵抗を感じるものだから、仕方がないと言えばそうかもしれない。さんはどうかわからないけれども、俺はミリオが泣いているのを見たことがなかった。かっこつけのいいかっこしぃ、心の中では何度もそう罵ってきたのだから、俺も案外腹黒い。
さんは事務所に寄ると言って途中で別れた。街灯だけが照らす道をミリオとふたりだけで歩く。昨晩から降り続いた雨は昼前に止んだけれども雲は晴れずに、結局日が落ちるまで冴えない天気のままで、こうして星のない夜を迎えている。会話はない。俺も決して饒舌な質ではないし、こういうときばかり特別ぶる必要などなにひとつとしてないと思ったからそのつもりでいた。
「環、」
「なんだ」
「なんでもないよ、別に。呼んだだけ」
「……そうか、」
俺の視線を受け止めるミリオのくるりと丸い瞳がふたつ、にまっと弓形に細くなる。夜中の街灯の白い光がミリオの肌に映る。ところどころ光に栄えた皺が、昔より少し深いものになっていることに気がついた。つやつやとしていてなめらかな肌、けれども昔とはなにもかも違っているそれ。
ああ、もう俺たち三十路なんだな。
過ぎ去ったあの日の俺たちはもうどこにもいない。三十を間近に迎えて漸くありとあらゆることに開き直ることができた少しずるい大人の自分がいる。幾重にも積み重ねてきた経験だとか思い出は、前に進む鍵にも足を止める重荷にもなる。たくさんのものを足して大人になれていた日々はもう遠い。もう俺たちはなんでも手に入れすぎてきたから、なにかを捨てなくちゃ新しいものは得られなくなったのかもしれない。
ミリオがひとりで旅立つと聞いたとき、へぇ、と自分でも情けない程に間抜けな声が出た。信じられなかった。正直なところ、過去形じゃなく今もまだ、信じられないままでいる。俺が真っ先にわかってあげなくてはいけないということは嫌というくらいにわかっているのに、どうにも上手くはいかない。大人になりきれていないとわかっているのに、心はたまに自分勝手だ。
現実として受けとめなくてはいけないから、と今はあまりに負荷を感じすぎているけれども、過ぎてしまえば、この喪失感もひとつの通過点にと変わるのだろうか。時が変えてくれるのだろうか。今はまだ、にわかに信じがたいけれども。お前の行く方向についていくと、お前を信じて強くなると、遠い昔の俺は決めた。だから今、俺は信じるしかないのだ。ただまっすぐな気持ちをミリオに向けるしか選択肢は残されていないのだ。
初めてさんに対して恋を自覚したことも告白したこともインターンで起きた大きな事件も学生時代の毎日の出来事もなにもかも、いつの間にか振り返って笑えるようになったみたいに。あのときの自分はばかだったなあだとかあれはおもしろかっただとか楽しかっただとか。そんな救済に、優しいものにと変化してくれるのだろうか。
そうであればいいのにと願う。強く、強く、強く。
「環。のこと、これからも頼むよ」
「……ああ、任せてくれ」
けれど。
互いに笑い合った日々を愛していたことはきっとこれからも忘れられないはずだと思う。
そばに、今もずっと大きく、この胸にあるよ。忘れないよ。