※モブ男が出ます

オールトの雲



「たとえば、の話なんだけど」

 我ながらへたくそな切り出し方であると自覚はしていた。

「……自分の彼女が他の男に告白されている現場を見た時の対処法について?」

 ぽかんと気の抜けた顔を晒すミリオが反芻した言葉に、俺は口を開くこともままならずただ重々しく頷いた。後頭部は漬物石でも乗っているのではないかと思う程にずっしりと重く、下げた顔を上げるのがつらい。勿論というか当然というか、重いのは頭だけではない。正直なところ、気分は最悪だった。


「す、好きです!」

 神聖なる学び舎の校舎裏をなんだと思っているのだろうか。
 教室に設置していた中身いっぱいのゴミ箱を焼却炉に運ぶ道中、そんな上擦った声が聞こえて、随分大胆なことをするひともいるものなんだな、まるで少女漫画やドラマみたいだ、と他人事の心持で校舎の角を曲がったところで遭遇した当事者たちは、見知らぬ男子生徒とさんだった。
 ひゅっ、と息を呑む音が自分でもはっきりと耳に届く。次いでどっと冷や汗が全身から噴き出るような感覚。慌てて先程曲がってきた角に隠れるように身を潜めてしまった。どっどっどっ、と早鐘のように心臓が胸を叩く。ゴミ箱を取り落として中身をぶちまけなかったのは奇跡だ。ところで、俺はやましいことなどなにひとつしていないというのに、これは隠れる必要性があったのだろうか。
 念のために説明しておくと(誰に対しての説明であるのかはややメタな話になるので訊かないでおいてほしい)、さんは俺の彼女だ。この場合の彼女とは恋愛関係的な意味で付き合っているということを指している。俺もさんも、決して交際を言いふらしているわけではないのだけれども、いろいろな意味で俺たちは目立つ。だから少なくとも教師や同じ学年の生徒であれば大体のひとが知っていることで、そんなさんに告白をするだなんて、とんだ猛者で、そして、おそろしいことだ。
 たとえば、俺みたいにさんを見て、ああ、このひとのことが好きだと身を捩る男子がいないとは限らない。打算にまみれた思考を隠しもしないでさんに近付く男子がいないとは限らない。そんなことはわかっていたというのに。

「えっ、ご、ごめんなさい……」
「いや、ちがくて、いやちがわねえんだけど!あのさ、が天喰と付き合ってんのは知ってんだ、でも、どうしても伝えたくて、」
「……えー、えっと、」
「あっ、返事は今すぐじゃなくていいんだ!ちゃんと待つし!待てるし!」
「ん、んん……?」

 困惑の色と、どう返したものかと口を開いたさんを遮るように言葉を重ねる男子生徒。やっぱり交際自体は知っているのか、というか待てるってなんだ。返答への猶予はさんの考えが変わるかもしれないことへの微々たる期待を込めているのだろうけれども、俺から言わせてみればそれは男子生徒が失恋の痛手を抱える心構えをするための猶予だ。思考を巡らせる期間を設けられたところで、結果は変わらない、……と、思いたい。
 気になることは確かだけれどもこれ以上立ち聞きをしているわけにはいかない、とゴミ箱を再度抱え直し校舎の反対側をぐるりと遠回りして焼却炉にゴミを投入したところまではなんとか思考もきちんと回っていたと思う。けれども、それ以降の記憶はあまり明瞭ではない。気づいたときには寮にいて、ミリオの部屋に押しかけて今に至る。すまないミリオ、反省はしているんだ。

「あー……、話は大体わかったけどさ、まあ、なんていうか、言い方はアレだけど、が環を捨てるなんてことはあり得ないと思うんだよね」

 ミリオがそう溢しながらがしがしと後頭部を掻く。
 わかっている。この際、俺がさんにフラれることをさんの裏切りと称することができるか否かは置いておくとして、さんが俺を裏切ったり欺くような真似をするようなひとではないことは、短くない付き合いのなかで充分すぎる程に知っている。
 他人の心変わりは咎められないけれども、さんに対する疑いは微塵もない。さんは素直で真面目で篤実なひとだ。誠実なさんは常に軽率とは程遠いところにいて、聡いさんはいたずらに俺を傷つけることはしない、絶対に。
 けれども、ひとにはどうしたって限界というものがあって、俺のことを好きだと舌に乗せて微笑むさんのことは確かに信用も信頼もしているけれども、だからと言って俺が自分に自信が持てるかといえば話はべつだ。僅かな不安にも耐えられない、矮小な俺は下手な妄想を打ち消したくてもどかしかった。
 だからこうしてただただ拗ねるようにみずからの殻を形成して閉じ籠もって、ありとあらゆるものものから逃れようとしている。

「……こんな、こんな、汚い感情、さんに知られたくない」

 椅子の上で膝を抱えながら俯くように膝に額を当てて呻く。吐き出す息はどろどろと黒く、重い。
 明け透けに言ってしまえばさんは既に俺の彼女で、決して所有物と言いたいわけではないのだけれども確かに俺のもので、今更他の誰かのものになんて成りえるわけがなくて、先述したように万が一でもさんが俺を裏切る可能性なんて無いに等しいものであろうことも俺は充分に心得ている。
一体なんの権利があって俺はあの男子生徒に嫉妬しているというのだろうか。ひとがひとを好きになることに、資格も権利もいらないはずなのに。けれど、それでも、俺はさんを失うことが怖い。
 恥ずかしかった。この感情は独占欲と呼ぶに相応しい。さんを好きになって、満たされて、そうして得たものがこんなにも醜い感情ひとつだなんて。みっともなくて、はしたない。
 こんな醜い感情に捕らわれている今の俺が、さんに釣り合うわけがない。ぐるぐると体内を流動する重苦しい空気をどうにか吐き出そうと懸命に呼吸をしてみるけれども、どうしたって息が詰まって、余計に苦しくなるだけだった。気持ちが悪い、吐きそうだ。心臓が握りつぶされそうな程にきりきりと痛む。

「……俺はさ、環。独占欲って、言うほど悪いものでもないと思うんだ。だって、それだけ相手を好きだってことだろ?」

 俺は俺のことを情けなくて、みっともなくて、くだらないと思っていた。不意に叶ってしまった不慣れな初恋に右往左往して、いつだっていっぱいいっぱいだ。ほかにするべきことなど山のようにあることはわかっているというのに、俺ときたら自分の小指に結ばれた目には見えない赤い糸を手繰り寄せるのに手一杯だ。
 男の嫉妬は醜い、などという世間一般でまことしやかに囁かれる解釈はミリオの中にはないらしい。俺を慰めるためだけに吐き出されたわけではないのだろうそれは、いつだって前向きで明るく振る舞うミリオらしい言葉だった。

「俺は二人の事が好きだから、それはもちろん、友人としてってことだけど、だから二人には幸せになってもらいたいよ。環とならきっとどんな困難だって乗り越えられるし、その前に俺がどんな障害も取り除いてあげたいけど、まあ、余計なお世話だよね」

 余計なお世話はヒーローの本質、と屡々ミリオは口にしているけれども、こと恋愛ごとに関してはお節介を焼くつもりは更々ないらしかった。
 返事をかえさない俺の代わりとでもいうように、部屋にノックの音が響く。「……あの、ミリオ?」控えめなさんの声が聞こえて、思わずびくりと肩が跳ねる。そんな俺に反して既に予見していたことなのか、訪問者に驚くこともなくミリオは無言で俺の肩を軽く叩いて部屋を出ていった。

「環くん」

 ミリオと入れ替わりに部屋に入ってきたのか、さんの声が近い。けれど、俺は言葉を返せない。さんの話を聞くのが怖い。いっそ逃げ出してしまいたかった。散々浮かべては掻き消した嫌な妄想ばかりが脳裏を過って、ずしり、と胸の奥が泥のように重くなる。頭が痛い。多分、俺は今にも泣き出しそうな顔をしている。

「……ね、環くん。ちゃんとね、断ってきたから、大丈夫だよ」

 それはちいさな声だったけれども、しんしんと沈黙が降り積もっていた部屋には存外おおきく響いて、思わず動揺露わに肩が揺れてしまった。主語の抜けたその言葉はきっと、当事者とあの場にいた人間にしか把捉の叶わないものだった。だからこそ、それらの言葉に含まれた本質を見抜くことは容易い。
 ちゃんと、がどこに掛かっているものなのか、少しだけ引っかかる気持ちはあったけれども、それでもやはりさんがいたずらに俺を傷つけるようなことはしないのだと、確かな安堵を実感してしまう。風船の空気が萎むように、どろどろとした汚い感情が胸に開いた傷口の端から流れ出ていくようだった。

「心配、させちゃったね」
「……うん」
「なんか、ごめんね」

 ゆっくりと顔を上げた俺に安心したように顔を綻ばせたさんは、決して恣意的に不安をばら撒いたわけではないというのに、まるで俺を傷つけたのは自分なのだと思っているような、申し訳なさそうな顔をしている。けれども、許されたいのは俺のほうだ。長いこと体内で育てあげた莫大な愛しさはこんなことでは揺るぎもしない。それを誇っていいのか、嘆いていいのかも判断できずにいる俺はまるで子どものようだ。
 さんは俺の表情を見て困ったように小さく笑った。些細なことですぐに謝る癖はいつまで経っても直らない。けれども、彼女のそういうところが、どうしようもなく愛おしい。きゅう、と心臓が撓る。
 贔屓目も入っているとは理解しているけれども、度が過ぎる程に可憐なさんに誂えるに相応しい男は俺の他にごまんといることだろうと思う。特筆するべきことのない俺よりも、記念日には薔薇の花束でも用意して、きれいな発音で女子が好む映画に出てくるような科白を軽やかに舌に乗せるような男がさんには理想的だということくらいわかっている。俺がさんを好きでいることは、愛しているということは、つまり、さんの無限の可能性を奪うことと同等であるということになんか、とっくのとうに気付いている。それでも、ここを退く気には到底なれないのが本当だ。

「……ひどいひとだ、ほんとうに」
「ええ、わたし?」
「ほかに誰もいないよ」

 三角座りの膝の上に置かれた俺の手に左手を重ねるさんに向かって、僅かに不貞腐れたように言えば、さんは俺の頭をやわやわと撫でてちいさく声を漏らして笑った。笑いごとじゃない。けれども、彼女のてのひらは心地良い。
 手招きしている理想的で官能的な恋をすべて振り切って、俺と狭い世界に収まっているさんに申し訳ないことをしていると思うこともある。たとえば、本当に運命というものがこの世にあると仮定して、さんの運命が俺のそれに結びついていると驕り高ぶる気持ちは全くない。神様でさえも把握していないであろうこの恋の行き先を見破っているとも豪語できない。けれども、そんなことはどうでもいい。俺はさんを幸せにすることはできないかもしれないけれども、不幸にすることはありえない。さんが俺の生きる理由だ。さんへの愛の証明には運命も時間も必要ない。
 瞬きのたび、瞼の裏側にちかちかと星が散るのを見ながら、俺は考える。俺が四六時中みっともないとしたら、それは間違いなくこのひとのせいだ。

「……すきだ」

 手を繋いで、目を合わせて、思慕のことばをそっと舌に乗せると、さんが頬を染めてふわりと笑った。夕陽が沈んで僅かに暗闇の支配が及んでいる部屋のなかにあっても、さんの可憐さはよく見える。決して饒舌になれない俺の拙い愛の言葉にだって、さんは満足気に微笑む。だからまた、矮小な心臓がきゅうと撓る。

「――わたしも、」

 さんのつぶやきが、憂鬱の霧散した部屋の空気にゆるやかに溶けていった。