そうね世界にはふたりだけ



 枕に顔を埋めちいさく丸くなるさんの姿を見て、胸の中になにかがすとんと入り込み、そのまま心を落ち着かせてくれているようだった。
 いつも優しく俺を見つめてくる瞳は閉じられて、カーテンの隙間、窓から差し込んでくる朝日によって繊細で長い睫毛が光に透けながらその頬に影を落としている。そうして影の黒さが入るとさんの肌の白さはよりいっそう強調されるようで、思わずほうと溜め息を吐いた。見惚れる、見蕩れるという表現はもしかしたらこういったときのためにあるのかもしれない、と思う程には。
 俺自身、男としてはやや色白な方ではないかと思っていたけれども、まるで比べ物にならない程の透明感とすべらかさがそこにはあった。白すぎだろう、と思わず笑みが零れる。白いシーツに溶け込むようであるくせに、俺の視線を捉えて離さない。特に、こうして朝日に晒されたさんの肌は現実味を欠いたなにかの彫刻を彷彿とさせる程で、それが過剰な表現だと思えない部分があるのがまたおかしかった。

(……なんか、ずるい)

 これではせっかく淹れたコーヒーも冷めてしまうだろう。ゆらゆらと湯気を立ち上げて芳ばしい香りを朝の空気に織り交ぜていくふたつのマグカップを静かにベッド脇のサイドテーブルに置くと、陶器製のそれがお互いの音をちいさく奏で、ゆらりとコーヒーの水面が揺れた。僅かな振動でも波紋を起こす様子を暫く眺めて、けれどもその無意味さに気づいた俺はそのままベッドへと腰掛ける。ふたりぶんの重さに軋む音が聞こえて、その音に対してか、それとも僅かに沈んだ体の動きを察したのか。どちらかわからないままさんがすこしだけ唸り、枕に押し付けた顔を擦るように左右に振った。その小動物を彷彿とさせる姿に目が覚めている時のきびきびと動く彼女とのそれが重ならず、知らなかった一面に吐息が漏れる。眉間に皺が寄っているのがちらりと見えて、夢でも見ているのだろうかとそっと手を伸ばし頬を撫でてやると、一瞬強張った素振りを見せたあとにふにゃりと笑った。唇が僅かに開閉して、もしかして名前でも呼ぶだろうかと考えていると今まで動いていた頭はぴたりと止まって、そのまま寝息が漏れる呼吸音。
 ほんのすこし、落胆を織り交ぜた笑いが込み上げてくる。まず自分がそうして甘いことを考えたことに対してひとつ、そして今現在の状況に出くわすという奇跡にも近い偶然にひとつ。
 さんと比べてしまえば誰だって決して得意とは言えないだろうけれども、俺は早起きが得意ではないし、どちらかといえばできないに近しいものであろうし、特に休みの日であれば殊更にしたいとは思わない。だから朝は平日も休日も大抵さんが先に起床して、朝食の準備をして、コーヒーを作って待っていてくれているのが常だった。けれども、今日は珍しいことに俺がコーヒーを淹れて寝室に戻ってきても、さんはまだ夢の中だ。

(……そんなに無理をさせたつもりは、ないんだけど)

 通常通りという言葉がこういった場合にも適用できるかどうかは別として、そんなに過激なことをさせた記憶も、さんが特別疲れを感じていたという印象も見受けられなかった。
 けれど、まあ、と俺はベッドの上で足を組む。原因や理由を究明したところでこうしてさんの寝顔をじっくり見る機会がこの先度々あるとは到底思えない。さんは屡々休日に居間で昼寝をするけれども、今回のこれはいつものそれとはまた意味合いの違ったもので、だから今はただ見つめているだけで充実できる時間を大切にすべきだろうと切り替えた。

 再びさんが身じろぎをする。そろそろ起きるだろうかと覗き込むように身を屈めると、まるでそうして俺が彼女の顔を見たがるのを知っていたかのように、さんはさっと後頭部を見せてきた。それは、眠っているひとの単なる寝返り。意識だとか無意識だとかいう言葉は端から意味がない。けれども、それを引き止めようと思わず手が伸びてしまったことに、俺は驚いて暫しその伸ばしかけた右手を見つめた。
 そんなに依存している気も、される気も。なかったというのに。

(やっぱり、ずるい)

 ほんのすこし、声も漏らさずにちいさく笑う。限りなく苦笑に近いその笑いを引き摺りながら、俺はそっとベッドに乗り込んで正座のような体勢を取ると、再度右手を伸ばし、投げ出されたさんの手にみずからの指を一本一本絡めていく。すこしずつ肌が触れ合う箇所が増えていく感覚は、俺に安堵感や安心感とは違う、それももはや真逆と言っていい感情を植えつけた。そこに酔いしれることを躊躇わず、今度は体からゆっくりと力を抜き土下座でもするかのように頭を下ろして、さんとの僅かな距離を詰めていく。額同士を付けるために枕に顔を埋めた。痛むことの知らない豊かで艶やかな橙色の髪が唇に触れて、すう、と深く息を吸うと花の香りが肺を満たしていくのが分かる。指先から、肺の中まで。文字通りからだじゅうがさんでいっぱいになっているようで、そんなことを考える平素からは到底想像し難いみずからに、けれど笑みが引っ込むようなことはなく、むしろ加速していく。
 指を絡めていない方の左手で、大気に晒された剥き出しの肩を抱いた。てのひらに吸い付くようなすべらかな肌触りが心地よくて何度も撫でていると、くすぐったいのかさんが抗議をするように再び唸った。目の前にあるさんの表情が僅かに険しくなるのを珍しい気持ちですこし眺めた後、耳元でちいさく「さん」と囁くと、ひくりとからだが僅かに揺れて、ゆっくり、ゆっくりと瞼が開かれていく。

「……たまき、くん……?」
「おはよう、さん」

 思った以上に自分の声は掠れていたけれども、そんなことも気にならない程にさんの声の方がずっと甘く掠れていた。やはり、すこしばかり無理をさせたかもしれない、と昨晩のことを思い出して、胸のうちでだけひっそりと謝罪の言葉を述べる。
 寝起きでとろんとした表情を見せるさんは、状況が理解できないというよりもまず、理解するという思考が働く程の覚醒をしていない。あどけない表情のままに何度かゆっくりと瞬きを繰り返す繊細な睫毛の動きを間近で眺めた。そしてその平素では到底見られるものではない表情に対して、口の端から力の抜ける笑みが零れた瞬間。

「……え、環くん!?」

 ぱちり、といきなり焦点の合った瞳と視線がぶつかって、さんが焦った声を上げる。そして驚きに身を任せて飛び起きようとしたようだけれども、それは俺によって阻まれた。繋がれたままの右手と、肩に置かれたままの左手。思っていたように身動きが取れないことに漸く気がついたのか、僅かに瞠目するさんにそっと唇を寄せる。軽く口付けて、すぐに離した。平素は音を立てるのを嫌がるさんだけれども、なにも言わずに受け止める。途端、僅かに赤みを帯びる目元を認めるとその可憐さにほんのすこしちいさく笑って、もう一度。更にもう一度キスしようとすると、「ちょ、ちょっと、まって」と焦ったようにてのひらで塞がれた。

「今日、どうしたの」
「……なにが?」
「わたしより早く起きるのなんて、珍しいね?」
「ああ、うん、俺もびっくりだ」

 その後僅かに唇を尖らせたさんの口から漏れたのは、不満そうで不服そうな「ふうん」だった。どこか引っかかる口振りに首を傾げると、さんはしまったとでも言うような表情でふるふると首を横に振る。けれども、俺がじっとさんから目を逸らさないでいると、ううん、と唸りつつすこし眉間に皺を寄せ、上目にちらりと俺を見た。その後、視線を斜め上にずらしてため息をひとつ。そうしてもう一度視線を寄越してから、恥ずかしげに頬を桃色に染めたさんが口を開いた。

「……特権、だなって」
「え、」
「朝に、環くんの寝顔を見れるのって、わたしだけだって思ってるから。だから、いつも……嬉しいの。好きなの、寝顔見るの」

 まるで親に叱られたときに言い訳をするこどものような口調で、やはり恥ずかしいのか目線はうようよとあちこちを泳いでいる。けれどもさんを小突くようなことも、諫める言葉を吐き出すようなことも、俺には到底できるわけがなかった。ぶわわわ、と急に顔が熱くなって、肩が熱くなって、というか、からだが熱くなって、繋いでいるてのひらのあたたかさだとか、左手で触れている肌のやわらかさだとか、すべらかな触り心地だとか、鼻腔を僅かに擽る花の匂いだとか、さんをさんたらしめるすべてが愛しくなって、ただ胸を突く甘い痛みを堪えるためにぱっとさんから視線を逸らす。鼻の奥がじんとして、目の淵に涙が滲むのがわかった。おかしくなってしまいそうな程に心臓が騒ぐ。口を開いて、息を吐いて、唇を引き結んで、呼吸のために口を開いた。熱い喉の奥を鎮めるように俺がそんなことを繰り返しているうちに、さんが先に口を開いて、「えっ、どうしたの、ごめん、大丈夫?」と心配そうに視線を追いかけてくる。
 さんは知らないのだ。どれほどその優しさが、甘さが。俺の中のすべてを包み込んでくれているのか。たくさんの愛をもらって、穏やかさで心が満たされて、ぬくもりが燦然と溢れてくるようだった。そして、今となってはそこに溺れることがなにひとつとして怖くないというのだから、困る。とんでもないことだ。
 胸のうちから湧き出すありとあらゆる感情を飲み込んで、ほとんど衝動的にさんのからだを抱きしめた。ちいさな悲鳴は俺の耳にもはっきりと届いたけれども、都合良く聞こえないふりをする。出会ってから何年も経って、何回も抱きしめあって、互いの肌のにおいに慣れきって、ありとあらゆる構成を知り尽くしているというのに、いつまで経っても可憐なさんが恥じらいを捨てることはない。顔を見なくたってわかる、さんの真っ赤になった顔、繰り返す瞬き。ほんの僅かな抵抗をしながらも、最後は必ず回してくれる腕。向き合って欲しかったのだということを、こうして真正面から向き合ってもらって初めて知った。
 さんの細やかな息遣いに胸が打ち震える。いっそ声を上げて泣き出してしまいたかったけれども、この歓喜を1ミリリットルだって体内から逃してしまうのはあまりに惜しい。さんを抱きしめてベッドの上にだらりと横になったまま微動だにできず、俺はすこしの間そっと息を止めてみる。肉眼で捉えることの叶わない空気の流れに乗って、この歓喜は届くだろうか。さんはもちろん俺だって、サイコメトリーの個性もエンパスの個性も持ってはいないし、近年の科学技術の進歩がめざましいとはいえ決して期待してはいけない部類の夢物語だろうけれども、どうか届いて欲しかった。このどうしようもなく溢れ出る愛しさ、俺が俺自身の意思でさんのために注いできた時間、心、意識、すべて、余すことなく。

「え、な、た、環くん?」
「ごめん、もう、いっかい」
「なにいって……あれ、コーヒーまで淹れてくれてたの?」

 サイドテーブルに置かれたふたつのマグカップに漸く気づいたらしかった。ほんとうに今更だ。けれども今となってはそんなものはどうでもよくなってしまって、俺は軽く頭を振ってさんの肩口に顔を埋めた。はあ、と呼吸をすると吐息が掛かったらしいからだがひくんと僅かに跳ねて、そういえばさんはまだシーツだけしか身にまとっていない生まれたままの姿だったと気づく。俺が起きた時点でエアコンのスイッチは入れておいたにしても寒くはないだろうか、と一瞬憂慮したけれども、個性の影響であるのか基礎体温がひとより比較的高めなさんはさして気にも留めていないようだった。なにせ時間的に言えば随分前から服を着ている俺よりずっとずっとあたたかい。
 学生の時から、冬場は頻りに誰かのホッカイロ代わりにされていたことを思い出す。さすが太陽の個性は伊達ではないということだ。そう思うと、なんだかさんを包んでいるシーツも、今自分が着ている服でさえもふたりの間を隔てる邪魔者であるような気持ちになってしまって、起き抜けの肌寒さに負けた数十分前の自分が恨めしくなって、ひっそりと悔いた。間に挟まる数ミリの隔たりを取り去って、柔らかな体温に包まれて、シーツに縫い付けるようにさんの五指を絡め取って、どうせなら皮膚の隔たりすら失くしてこのままひとつに、なんて。

「別に、いいから」
「よくないよ、ね、冷めちゃう前に飲もうよ」
「たぶん、もう冷めてる。後でさんが淹れてくれないか。俺の多分、おいしくないから」
「環くんが淹れてくれたコーヒーなら、尚更わたしは飲みたいんだけど……」
「……っまた、そういうことを、」
「ちょ、っと、た、まきくん……っ!」

 ぐらり。眩暈がした。さんがあんまりにも可愛いことを言うものだから、やめてほしいと心臓が叫ぶ。みなまで言わせず、ふたりでベッドに沈み込んだ。さんの豊かな髪がシーツに広がって、花の匂いがいっそう芳しく香り立つ。やわらかい抱き心地に露出した背中の骨筋をなぞるようにさすると、咎めるようにすかさず飛んでくる力の籠もっていない平手を握って、俺はまるで初恋に喘ぐ学生のように、熱の籠もった呼吸を繰り返す。

 俺はさんが好きだ。どんなに上等な料理よりもなにもするべきことのない長閑な休日の朝よりもやりがいのあるヒーローの仕事よりも、或いはすこしひどい言い種になってしまうかもしれないけれどミリオよりも両親よりも愛している。心を触れ合うことの愛しさも、ひらくことの心地よさも知ってしまった。かなしみも淋しさも見栄も意地も、俺を俺でなくしてしまう要素を与えてはみずからの手で摘んでゆく、俺の正しさを知っている。俺はさんなしではいられないし、さんなしでは生きられない。世界でたったひとり、いつだって俺の側にいてあたたかな愛を与えてくれるさんよりも優しいひとを、この広いひろい地球上のどこを探したってきっと俺は見つけることができないだろう。そんなさんにとっての俺も同じように、いつだって誰よりもさんの近くにいて、たしかな愛を与えることのできる優しいひとでありたい。そう願うことは我儘だろうか。けれども、どうしたって結局のところ、思慮深くは決してなれない俺の思考が行き着く先はひとつ、さんが好きだ。

 顔を見ようと僅かに距離を取ると、俺と同じか、或いはそれ以上に濡れた碧の瞳と視線がぶつかった。瞬きに合わせて小刻みに震える繊細な睫はどこまでも頼りなくて、きゅっと結ばれた桜色の唇はいつまでも衝動を揺さぶってくる。そのまま顔を傾ければ、まだ先ほどの甘さから抜け出せていないのであろうさんは両手を使って俺の肩を押すけれども、その力は極めて微々たるもので、本当にやめて欲しいわけではないことを伝えるばかりだった。好きだ、と囁くと恥ずかしそうに赤らめた目を伏せて、けれども眉を下げてふにゃり、とひどくやわらかに喜色を滲ませて笑う。その可憐さとたおやかさに、どうしようもなく心の奥底に沈殿した愛しさが燃えるものだから、堪らずめちゃくちゃに抱き締めた。きゅう、とあまやかに心臓が撓る。
 さんのことが、好きで、好きで、好きで、好きで、なんだかもう、ほんとうに、おかしくなってしまいそうだ。
 先程まで容易く行えていたはずの呼吸が上手くできない、とみずからの咽喉を訝ったけれども、それもそのはずだった。自身で把捉するよりもはやく、両目からぼたぼたとおびただしいほどの涙が零れていた。はっとして身体を離す。あんなに泣いてしまうのは惜しいと思っていたというのに、なんだ、これは。みずからの涙腺の機能低下に驚き唖然とするけれども、涙は止まることなく頬を伝って、顎から輪郭を離れてベッドシーツに散っていく。驚いたのは俺だけではないようで、さんもまた、驚いたようにぱちりと瞬きをした。けれども、みずからも涙を湛える潤んだ碧眼を細めて、まるでつぼみが花開くようにふわりときれいに笑って、俺の頬を包むようにそっと両手を添えた。さんをさんたらしめている、いちばんの要素。あたたかなてのひらに、花弁に触れるようなやさしさで、そっと濡れた頬を拭われる。
 たった、それだけのことで。
 俺は頬に添えられたさんの両手にみずからのそれを重ねて、ぎゅっと目を強く瞑った。ぱたり、と目の淵を伝って零れ落ちた涙の粒が、カーテンの隙間から差し込む朝日に反射してきらきらと光る。いろんな想いに気道を塞がれて声が出せない。こんな、こんなしあわせな呼吸困難はほかにない。

「わたしは、わたしを幸せにしてもらうために環くんを選んだんじゃなくて、わたしが幸せになるために環くんを選んだの。似ているけれど、これって全然違うことなんだよ」

 ふいに、いつの日にかさんに言われたことばが、鮮やかすぎるほど明瞭に脳裏へ蘇る。
 涙が止まらない。
 さんは、自分ひとりが幸せになるために俺を選択したわけではないのだと言う。だからといって自虐指向があるわけでも破滅願望があるわけでもないさんが決して幸せになりたくないわけではないことくらいわかりきっているけれども、さんは俺と一緒に、ふたりで幸せになりたいのだと言う。幸せにしてね、でも、幸せにするよ、でもなく、幸せになろう、と、誰でもなく他でもないさんが、誰でもなく他でもない俺を選んで言っているのだ。こんなに贅沢で華奢でやさしい言葉が、果たしてあっただろうか。もっとも、素直で真面目で篤実なさんが俺に嘘をつくわけがないし、まして欺くわけもない。さんが一度取り決めた約定を違えたことなどただの一度もないことを、矮小な俺はしっかりと心得ている。
 涙が、止まらない。
 愛することと愛されることが調和する世界はすばらしい。
 すくなくとも、液体となったこころと、からだじゅうの水分が両目から溢れ出てしまうくらいには。