もうふたりではいられない



「環くん、晃とはきちんと目を合わせておはなしするよねえ」

 それは、特に深意もなく舌に乗せた言葉だった。
 基本的にひととのコミュニケーションが得意とは言えない環くんは、ひとと目を合わせて話をすることも苦手だ。馴れない相手や波長の合わない相手と話すときは、上がり症の質もあるせいか途端に視線がふよふよと宙を泳ぐ。馴れた相手であればどうということは無いし、わたしも環くんに負けず劣らずの人見知りなものだから、それを直せと口出しするようなことはしないのだけれども。

「……え、」
「だって、いつもは馴れるまですこしかかるじゃない?晃は、産まれた時からこうだったなあって思って」

 コーヒーで満たされたふたりぶんのマグカップをテーブルに置いて、ソファに座る環くんと向かい合って膝に乗った晃の頭を梳くようにやんわりと撫でながらそう口に出すと、環くんは一瞬目を丸くして、そしてついと私から視線を逸らした。その目元は僅かに赤みを帯びていて、今の会話のどこに照れる要素があったのだろうかと首を傾げる。晃もくるりとまるい目を瞬かせて、不思議そうにわたしと環くんの顔を交互に見遣った。

「ぱぱ?」
「環くん?」

 環くんが座るソファのもう一人分空いたスペースに腰掛け名前を呼ぶと、狼狽えるようにあちこちへと視線を泳がせた。そっちを見ても壁時計とカレンダーがあるだけでわたしはいないよ、環くん。よっぽどそう言ってみようかと思ったけれども、僅かに唇を戦慄かせた次の瞬間には、なにかしらの決意を固めたのかぐっと横一文字に引き結んで目を合わせてくる。どうやら珍しく緊張しているらしいその様子に、思わずわたしまで居住まいを正した。

「……、だって、さんの瞳と、同じ色だから、」
「……っ、〜〜〜!」

 そうして躊躇いがちに吐き出されたその言葉に、すとん、と心臓の底になにかが落ちるような感覚をおぼえた。不安を煽る類の、鉛のようなそれではない、なにかもっと逆の、眩しすぎるなにかだ。次いでぶわりとこみ上げてくるような感覚。からだじゅうから溢れ出してしまいそうな幸福が全身を駆け巡るよりも早く、言葉にもならない声を上げ、がばりと衝動的に晃と環くんへ抱きついた。短く驚きの声を上げながらも倒れ込まないようにきっちりと抱き留めて支えてくれるあたりが流石プロヒーロー、わたしの重み程度ではどうということもないらしい。

「っ、さん、」
「環くんどうしよう、わたし、いますっごく幸せなの、幸せすぎて、罰が当たりそう」

 心臓から送り出される血流と同様に際限のない多幸感が全身を巡って、末端の細胞が息を吹き返したように活力に満ちていくのがわかった。周りきらない腕で精一杯にぎゅうぎゅうとふたりを抱き締めながらがばりと顔を上げると、耳まで真っ赤に染めた環くんがやけに可愛く見えてしまって、わたしは思わず笑い声を漏らす。みずからの顔も赤くなっているであろうことは容易に察せられた。けれどもこの幸福感はなにものにも代えがたい尊いものだ。きゃっきゃとはしゃぎ声を上げる晃の無邪気な笑顔を認めて、改めてじわじわと源泉のように湧き上がる感情に鼻の奥がじんとして視界が潤む。目頭があつい。すん、と鼻を啜ると環くんは依然恥ずかしそうにしながらもわたしの髪に手を伸ばして指に絡めて、すこし困ったように眉尻を下げた。

「……さんは大げさだ」
「そんなこと、ないよ」

 愛している。愛されている。こんなに幸せで辛いことってあるだろうか。ちいさくかぶりを振りながら、わたしはひそやかに吐息をこぼした。先程の環くんの言葉を聞いて、思い出したことがある。いや、今まで片時も忘れたことなどなかったのだけれども、これはまだ環くんにも晃にも、誰にも明かしていないことだ。

「ね、環くん」
「……ん、」
「わたしね、晃の髪、よく触るじゃない?」
「うん」
「それってね、環くんとおんなじ色だからなんだよ」

 指に絡めた髪を解いて、ほんのすこしだけ零れた涙の雫を拭って、するりと頬に寄せられる環くんのてのひらに擦り寄る。先程よりも熱を上げたようにぶわわ、と顔を赤くする環くんの様子に、わたしと環くんは至極似た者同士であると屡々ミリオが口にしていたことを思い出して、ふふ、と控えめな笑いが漏れた。
 わたしが晃の頭を撫でるのはもはや癖のようなもので、けれどもその動機など知る由もない環くんはさして気にも留めていなかったに違いない。なにせお互いにもはや無意識下の行動だ。
 晃の容姿はわたしたちふたりの血を色濃く受け継いでいる。髪は環くんが持つ烏の濡羽色を、そして瞳は私の碧眼を。お互いの外見的特徴を混ぜ合わせたような見た目だから愛しているのだと言うわけでは決してないのだけれども、晃がわたしと環くんとの無償の愛を存分に賜った存在であることの事実に変わりはない。そう考えれば子宝という言葉は正に文字通りで、殊更に尊いもののように思えた。

「ね、環くん、もしかしたらわたし、世界一の幸せ者かもしれないね」
「……俺もだ、」

 自然と緩む頬を隠しもせずにそう言うと、環くんがゆっくりと口角を持ち上げてちいさく笑った。耳朶を擽ったその声はわたしにとっての幸福がめいっぱいに詰まっていて、どうしようもなく愛しくて愛しくて愛しくて、心臓が壊れそうになってしまって、一度は引っ込んだ水分がまたぼろりと目から零れ落ちた。

 極論を言ってしまえばわたしたちの行動はすべて記号として処理できてしまうもので、構成する言語や数字を0と1で表すことができるのであれば、その半分は愛と表すことだってできてしまうのではないだろうか。つまりは、テニスのカウントでいうところの0がラブであり愛だ。コンピュータはすべての情報を0と1の組み合わせで認識をしている、そう考えれば0という数字は存在するものと認識してもいいものであるのかもしれない。目に見えない0と愛が同じであるように、1は始まりであるけれども始まる前から、つまりは生まれる前から持っているものが0であって愛なのだと。勿論全ての人間が須らくそうではないことくらい理解はしているけれども、赤子が生まれ落ちることが1であるとするならば、母親が自身の腹の中にいる子を慈しむのが、そして父と母が互いを愛し合ったことこそが0であるのかもしれない。けれども、それだけではなんだか味気ないと思ってしまうのも人間として極めて自然なことだ。

 だからわたしは彼と記号にできないようなことを、明確なかたちなんてない曖昧な感情のひとつひとつを共有していきたいんだ。きっとわたしたちはそのために今を生きてるんだって、思うよ。