※IFルート、闇堕ち表現有り

バタフライ・エフェクト



『ヒーローと”敵”は紙一重』

 いつかどこかのヒーローが言ったそのことばを真理のように思い始めたのは、いつのことだったろうか。英雄と敵とを別つのは生まれ持った能力ではなくその使い方や各々の意志や思想や取り巻く環境であって、けれども精神や行いに問題がなかったとて社会に適合できない人間が虐げられることで敵と同等に堕ちる場合も決して少なくはない。そしてヒーローを目指していた人間でさえヴィランに堕ちることが可能性としてゼロではなく自分たちのごく身近に存在し得るものなのだと、理解したのはそう遠い日の話ではなかった。

 息があがる。これは恐怖のためか、それとも疲弊のためか、それともこの身にまとわりつく酷寒のためか。どこまでも果てしなく息があがる。吐き出した息が熱い。か細く、今にも消えてしまいそうな命の灯火を空気に溶かすように吐き出した息が白い。まるで魂のようだ。震える。息が、肩が、唇が、あんなに守りたいと思っていた彼女を傷つけようとしている両腕が。

「……どうして、」

 言いたいことも訊きたいこともそれこそ山のようにあったけれども、からだの中で気体として流動し渦巻いた感情が液体となって溢れ出た言葉はたったひとつだった。なにに対して問うているのか俺がどんな回答を求めているのか、俺たちの付き合いの長さで理解できていないはずなどないというのにそれでも彼女はまるで理解の叶わない無垢な赤子のような顔をしてこてりと首を傾げた。

「どうして、だなんて。変なこと訊くね、環くん」

 そうして薄らと微笑む彼女の表情も、声も、本人の意識の傾倒しない無意識下の行動でさえも俺は確かに知っているはずなのに、纏う雰囲気だけはまるで彼女という器に別の人格を詰め込んだ知らないひとのようで、俺は密やかに口の端を噛んだ。その声を聞くたびに強く拳を握り込んでしまう俺のてのひらには爪跡が消えない。度重なるトラウマへの刺激に耐えうる性ではないということだ。認めたくない事実を、認めざるを得ない手段で突きつけられている。みずからの精神がじわじわと削り取られていくのがわかる。彼女の態度に、声に、姿に、存在に、古傷を抉られているようだった。

「……俺は、貴女だけは、さんだけは、敵に回したくなかった」
「……ね、環くん知ってる?愛とか、思いやりとか、気遣いとか、優しさとか、感謝とか、お礼とか、心尽くしとかも、数が集まればただの残酷な暴力になるの」

 絞り出すような俺の言葉を聞いたさんは心底不思議そうにくるりと目を丸め、そして困ったように眉を下げまるで無知な子どもに言い聞かせるようにゆっくりと舌に乗せたその内容は鋭い針となって心臓に突き刺さった。俺がさんへ向けていた感情やことばの数々は彼女を苦しめる材料に過ぎなかったというのだろうか。たとえば夢は追うものではなく背負うもので、夢は思いで、当然重い。それと同じように俺がさんに背負わせた愛も彼女にとっては重いものだったというのだろうか。或いは、太陽のようだという形容さえも彼女を縛り付ける枷に過ぎなかったのだろうか。

「わたしは、いずれ失うものなら最初からいらない。終わるものなら始まらなくていい。悲しまなくていいなら幸せなんていらない」

 俯いたさんの表情は窺えなかったけれども、震えて、今にも泣き出しそうな声色で放たれた言葉は的確に俺の心臓を明確に貫いた。いつの日かミリオが話してくれた言葉が脳裏に蘇る。「は可憐で優しくて逞しくて強い子だけど、存外脆いんだよね」さんが平素おくびにも出さない脆さは細やかで密やかだった。彼女は俺やミリオが無理を押して身体に傷を刻むたびに憂慮して涕涙したけれども、基本的に彼女がみずからが傷ついた事実を表に出すことはない。確かにそれは彼女自身のプライドがそうさせていたのかもしれないけれども、少なくともそうせざるを得ない状況下にさんを措いていたのはきっと紛れもなく俺たちだった。

「弔くんがね、言ったの。"枯れない花はないが、咲かない花はある。世の中は決定的に不公平だ"って」

 弔くん、という聞き慣れない名前に一瞬疑問符を浮かべ確かあの敵連合の頭の名前は死柄木弔というのではなかったろうかと思い至り、なぜさんが敵連合の死柄木と、なんていう愚問に程近い疑問を抱いたけれどもそれは真に愚問であった。
 インターンで死穢八斎會を制圧してから然程時を経ずにさんは雄英を自主退学し唐突に姿を眩ました。客観的に見ても優秀であり優等生でもあった彼女が俺やミリオや波動さんや家族にさえもなにひとつ言葉を残すことなく何処かへ消えてしまったことに雄英は酷く騒然として、或いは以前から疑惑の種となっていた内通者はさんなのではないかという噂が立つようになった。根も葉もないただの噂話であると彼女をよく知る人々は挙って否定したけれども、実際には俺が今彼女と対峙している事実こそが真実だった。

「それでわたし、思ったの。努力は必ず実を結ぶけれども、それが結果に繋がるとは限らないんだって」

 さんが言っていることは理解できる。おおよそ俺の知っているさんが言うような内容ではない、それでも言っていることの理解はできる。努力は必ず報われると古人はよく言うけれども、それならば何故、ミリオは個性を消失しなければならなかったのか。それにミリオは「あの子が痛い思いをするよりはずっといいよ」と言ったけれども、戦いの場で個性を失うことは即ち敗北を意味していて、ミリオがみずからを顧みない行動を起こすたびに"気に病む誰か"がいるということは失念していたのだろうか。勿論あの生きるか死ぬかの局面で余分な思考に意識を使う暇などなかったことくらいはわかっていたし、俺だってミリオを指摘できる立場ではないこともわかっていた。それでも考えずにはいられなかった。

「……、さん、俺は」
「ね、環くん。わたしのこと、がんばって殺してね」

 過ぎる優しさは残酷だとさんは言ったけれども、俺から言わせればそれはまさしくさんのことだった。さんは優しく残酷だ。俺が彼女を傷つけられるわけがないと、ましてやたとえ世界の安寧と引き換えにしたって彼女を殺すことなどできるわけがないとわかっているのにこうして懇願してくる。俺のよく知る、いつもの微笑みを携えて。まるで呪いだ。
 足音を立てず近づいてくるさんは、個性の発動をとうに消しているらしかった。そのまま手を伸ばせば触れられる距離にまで近づいているのに、けれど手を伸ばすことはできない、今や俺と彼女は違う世界の人間だ。

「本当に、好きだったよ。初めて会ったときからずっと。初めて会ったときよりずっと」

 そうして、困ったようにすこし眉を下げてちいさく笑う。

 ああほんとうに、彼女はひどいひとだ。