俺は海のなかに立っていた。
両足の脹脛までを浸すように広がった海をぐるりと見渡してみたけれども水平線はなぜか見あたらない。どうして俺はこんなところにひとりでいるのだろうと考えて、ふと右手がなにかを握りしめていることに気がついた。右手をそっと開くとそこには山吹色の花弁が一枚だけあって、瑞々しいそれをするりと指先で撫でて、俺はびっくりした。その感触を知っていたのだった。たとえばいつかてのひらとてのひらを合わせたとき、たとえばいつか両手で背を撫でたとき、まったく同じ手触りを感じたことがあった、と一瞬のうちに思い出された。
俺はてのひらにあった花弁をそっと海の上に浮かべる。くらげが漂うようにふよふよと浮かんでいた花弁は、ぱちりと瞬きをした瞬間に、まるでオブラートが溶けるように水たまりにするりと消えていった。そうして次に瞬きをしたとき、両足を浸していた海は一面が花畑に変わっていた。鼻腔をゆるく刺激する馨しさを感じながらゆっくりと膝を折ってしゃがみこみ、先程とはかたちも厚みも異なる浅葱色の花を同じように指先でそっと撫でてみれば、それはやはり同じような手触りだった。ああ、あのひとの皮膚だ。理解したと同時にぐるりと眩暈のような感覚をおぼえて、俺の意識は急速に浮上した。
「ぱぱ、おはよ」
90度に傾いた世界で、紅葉のようにちいさくふくふくとした手をひたりと俺の頬へ当てた晃が舌足らずな挨拶をしてにぱりと笑う。くるりと大きな瞳は、あのひとと同じきれいな碧眼だ。
扉を開け放った寝室にはリビングから流れたコーヒーのにおいが立ち込めて、コーヒーのなかに浸っているようだと思ったら振り払うことのできない眠気がどっと押し寄せて来て、俺は枕に埋もれて瞼を下ろす。
「晃、環くん起きた?」
「まだー」
俺を起こす大役を仰せつかった息子の様子を見に来たのだろう、ぱたぱたとスリッパがフローリングに擦れる軽い音を立ててさんが寝室に入ってきたのが微睡んだ意識のなかでもわかった。
「環くん、まだ寝てる?」
晃の紅葉のようなそれとはまた違った滑らかな手が俺の頬に寄せられたのを感じて、すん、と嗅覚を働かせればコーヒーのにおいに混ざって甘いにおいがした。花のにおい。彼女のにおい。
「……おはよう」
「うん、おはよう。コーヒー飲む?それとも牛乳にする?」
「コーヒーがいい」
ベッドからのっそりと這うように抜け出し、腰に貼り付く晃を抱き上げダイニングの椅子に座らせて、俺は開ききっていない目もくしゃくしゃになっている癖っ毛もそのままにコーヒーメーカーと向き合うさんを後ろから包むように抱き締める。さんの肩に顎を乗せると髪の毛が当たって擽ったいのか、丁度ウォーマーを手にしていたさんは危ないよと困ったように笑って俺を窘めたけれども、俺は構わずにさんの空いた左手を掬って親指でそっと甲を撫でた。山吹色の、或いは浅葱色の花とまったく同じ手触りだった。
「なあに、どうしたの?」
「夢を見たんだ」
「へえ、どんな?」
「花が咲いてた」
「そっかあ」
たおやかに笑って頷いたさんがするりと手を抜き去って、水切り籠からDハンドルマグカップを取り出しコーヒーを注ぐ。同棲を始めたばかりの頃に色違いのお揃いで買ったそれは当初に比べれば色も褪せて細かな傷も目立って、じきに二桁に突入しそうな年季の入り具合だけれども、お互いに物持ちの良い質だからかまだまだ現役だ。
「まま、おなかすいたー」
「はいはい、ちょっと待ってね〜」
催促する晃に返事をしたさんの顔を覗き込むように唇を寄せる。少しだけ無理をしたキスをゆっくりと解き、鼻先が触れ合う距離で目を合わせると、さんの背中から伝わるやさしい体温が、じんわりと俺のからだじゅうを巡っていくような感覚をおぼえた。
さんは少し困ったように微笑んで、けれども準備の妨げになるはずの腕は解かない。そういうところが俺を図に乗らせるのだということを、さんがどれだけ理解しているのかと肩に乗せている顎を僅かに揺らす。そしてやはり「くすぐったい」という一言が落ちてきて、謝ろうと再びさんの顔を覗き込んだ。
目が合う。先ほどの軽い、触れ合うだけの口付けだけだったにも関わらず僅かに頬を赤めるさんがそこにはいた。そして下から見上げるような俺の視線を、困ったように受け取る。その態度の意味を、出会ったときからずっとさんを見てきた俺が分からないはずがなかった。
再び触れ合った唇はより深さを求め、互いの呼吸を忘れることを教えた。さんの手からマグカップが滑り落ちる前にそれをキッチンの上に置いて、両手が自由になったさんがその手を俺に重ねて、しっかりと繋ぎ合わせた。濡れた音を立てて一度離した唇を、さんが息を吸い込む前に封じ、漏れた声さえも閉じ込める。そして、繋いだ手がきつく握り締められるまで続いた口付けを惜しみながら離すと、潤んだ瞳をさんが向けてくるから。
「あとで、ね」
そう呟いて最後に頬へキスを落とした。僅かにさんの眉が顰められているのは、悔しさと恥ずかしさからだということを知っている。こつんと額同士を軽くぶつけ、抱擁を解いた。その間際、さんが小さく頷く。まさか見間違いではないだろうかとぱっと顔を上げた瞬間に、再度晃からの催促が飛んできた。ハッとしたようにぱたぱたとマグカップをダイニングテーブルに運ぶさんの耳が真っ赤に染まっていることを認めて、俺は自分にあとでだ、と繰り返し言い聞かせるしかない。
「ね、朝ごはん食べよ、環くん」
未だほんのり赤い頬はそのままに、既に随分と待ちくたびれているであろう晃の、俺と同じ色の髪をやさしく撫でながらさんが手招きをする。
日常という風景にさんがいる。それがどれほど幸福なことで、どれほど嬉しいことなのか、きっとさんは知らない。けれども、それでいいのだと思う。少し意地が悪い言い方かもしれないけれども、この幸せを、この嬉しさを。知れるのは、俺だけでいい。そして同じような幸せを、嬉しさを。彼女に伝えられるのも、俺だけでいい。俺、だけで。