「……な、」
愕然とまともに声も出せず金魚のようにはくはくと口を開閉させてからだを戦慄かせる俺に、さんはへらりと眉を下げて困ったように笑った。その視線はかろうじて俺に向いているけれども、焦点は合っていないし、きれいな碧眼は平素より色が薄い。きっと視界は真っ暗だ。
「ごめんね、へましちゃった」
事の始まりは、およそ半日前に遡る。
さんが所属しているヒーロー事務所にひとつの要請が掛かった。プロヒーローを親に持つこどもがヴィランに誘拐され、今では廃墟となっている建物内に立て籠もっているのだと。生憎とヴィランは個性届けを出しておらず、今回が初犯であるため警察の調べでもその能力は不詳であるとのことだった。街中の巡回中にヴィランと遭遇し、個性不明というアドバンテージのまま応戦する場合は今までにも幾度となくある。調べてもわからないものは仕様がないと現場に向かい、ヴィランと対峙し一悶着はあったものの、どうにか無事に人質は救出したらしかった。ヴィランはどうやら攻撃力のない個性だったようで、捕獲自体に辛苦はなかったという。
けれども、その後に事故は起きた。
捕獲されたヴィランは、さんに個性を発動した。正確には、さんが保護していたこどもに向かって、個性を発動した。さんは狙われたこどもを庇ったのだ。
取り調べのなかで判明したヴィランの個性は「盲目」。対象の視覚を一時的に奪う能力で、その時間に使用者本人の意思は作用せず、短い場合で十数秒、長い場合でおよそ一週間、と完全なるランダムらしい。一度の発動でひとりに対してしか個性は掛けられず、また再度発動するためには二日のインターバルを要する、乱用はできず戦闘には極めて不向きな個性だ。
さんに個性を発動したその後ヴィランは目隠しをして拘置所に送検されたけれども、病院での診断によると、さんの視力の回復にはおよそ三日を要するとのことだった。
「ごめんね、手間かけさせちゃって」
「手間じゃないよ」
さんは視力が回復するまで自宅療養を余儀なくされ、その間は労災休業扱いになるらしい。ここ最近は働き詰めだったからこれを期にゆっくり休め、というのが事務所の決定であるらしかった。
さんはたったの三日だよと楽観視しているけれども、たかが三日、されど三日。その間彼女の瞳は一切の光を吸収することはないし、光を受け取らないということはつまり、さんの個性はこの三日間使えないということになる。だから仕事を休まざるを得ないことは理解しているけれども、納得はできそうにもなかった。
「さん」
「ごめんね、ありがとう」
視界が闇に覆われている間は、椅子から立ち上がるにも移動をするにも食事をするにもままならない。戦闘時こそコロナの運動エネルギーを漂わせて周囲にアンテナを張っているけれども、日常生活で使うには電化製品への影響が強く危険が多いようだった。目が見えないのであれば、殊更に。
医師は入院しての療養を薦めたけれども、さんは大げさだと言って病院に泊まるのを嫌がった。そもそも、平素より個性のおかげで入院するような怪我や病気に縁がないさんは、病院に搬送されるという経験が殆どない。皆無と言っても差し支えないだろう。
さんが小学校に上がる前、彼女が大好きであった祖父が亡くなったときも、雄英に入った後、俺たちが死穢八斎會に乗り込み怪我を負ったときも、ミリオが一度個性を完全に消失したときも。病院にやってくるまでの過程に幸福などなにひとつとしてないし、病院を後にする際にも明るい気持ちであったことなどない。
待合室から延びる白い廊下は、遠近感を狂わせてしまう。どこまで歩いたらよいのかわからなくなる。だからさんは、病院というものが昔から好きではないのだという。
「……俺が、」
「なあに?」
「俺が、代わってあげられたらいいのに」
「……どうして?」
そうして、この頃、自分はひどく醜悪ないきものではないかと思うことがある。可憐で聡明なさんが自分を選んだ事実に甘えて、ひどいことをしているからだ。彼女は誰よりも幸せになるべきひとだと思っているのに、みずからの手で彼女の幸福を削いでいる。そのくせ、他の誰かがさんの手を取ることは許せない。
瞼を下ろせば暗闇の中、後悔ばかりが頭を擡げる。さんの手を握ったり、身体を抱きしめたりするとき、俺はときどき不思議に思う。それは、あまりにも俺たちがぴったり合わさっているから。ぶつかるところがひとつもない、まるで、そう、片割れのオレンジのように。こんなにも過不足なく重なるから、潮が満ちてくるように俺は不安になる。それは夜の隙間にいつも忍び寄る不安だ。ざわざわと、俺の心臓をしめやかに握りつぶそうと覆いかぶさってくる冷たい闇の両手の気配。
たとえば、さんを本当に必要とする人間は、もっと他にいるのではないだろうか、とか。その人は、今この瞬間にも黒い夜の底で怯えている。冷たい圧力に恐れ慄きながら、身の裡に巣食う怪物を必死に懐柔して宥めすかして抑え込んで、それでどうにか夜を越えている。怪物はもうすぐ背中に肉薄していて、今にもこちらを呑み込みそうなどろりと凝縮された闇の気配が、暗く冴えきった氷点へと導くかのように彼を責め苛んでは、月のない、夜に。
「さんが、光を見れないから」
見えてはいないはずなのに、さんの、いつもより色素の薄い瞳が俺を覗きこむ。繊細な睫毛に縁どられた大きな瞳に点る光は、本当に夜空に浮かぶ月のようにやわらかく優しい。幾度となく俺を掬ってくれた手。だから不安になる、たまらなく恐ろしくなる。この手が触れるべきなのは、俺ではない誰かの人の震える手なのではないだろうか。さんの手は、本当はその人を癒すために在るのではないだろうか。
ソファに座り込んださんの両手を自身のそれで包むようにそっと覆って、俺が舌に乗せた脈略のない言葉にさんは幾ばくかきょとんとしたようだったけれども、次の瞬間にはいつものように笑って見せた。
「それならなおさら、環くんじゃなくてよかった」
思わずそっと息を呑む。触れる手のあたたかさに、耳朶をくすぐる声に、じわりと視界が歪んだ。
俺は、さんが俺の視界におさまる世界の愛しさを知っている。さんの瞳にうつる世界こそがうつくしいと知っている。けれども、恐らくさんにはそんなことはお見通しで、それでもさんはきっと、俺が彼女の視界におさまる世界こそが眩いものであると思っている。
とんでもないことだ、と俺は思う。相互的な理解になればいいとずっと願っていたそれが実際にはとうに叶っていた事実も、俺の矮小な魂胆などお見通しであったろうさんの聡さも、彼女自身の尊さも、なにもかも。
「ね、環くん、わたしは大丈夫だよ」
だから、環くんも大丈夫。子守唄に似た穏やかさで、さんの声が脳に響いていった。水面に垂らした絵の具が滲んでゆくように暖かな微睡みが広がってゆくそれが心地よくて、けれども心臓の裏側を刺すナイフの切っ先のような罪悪感を忘れられなくて、俺は小さく小さく謝罪を溢す。
「……ごめん」
「ふふ、いいのに、このくらい」
さんは不甲斐ない俺の謝罪などとうに聞き慣れているであろうけれどもそう告げずにはいらない。なにに対して謝っているのか、なにに対して謝りたいのか、訊ねもしないで彼女は容易く俺を許す。だからもう一度、心のうちで謝罪を述べた。こんなにも想っているのに、世界の誰よりも幸せであってほしいと願っているのに、そんなあなたに相応しい男でなくて、ごめん。それでもあなたを愛することをやめられなくて、ごめん。
けれども、さんとこの世界で生きていきたい。
彼女のあたたかいてのひらを、俺はもう手放すことなどできないだろうから。