月のてのひら



「いたいのいたいの、とんでいけ」

 さんが個性で怪我の治癒を施す際、必ず言うことばだ。
 高校生になった今では流石に相手を子供扱いしているようで気が引けるのか、声にこそ出してはいないけれども、それでも口内で呟くように言っているのを俺は知っている。
 出会ったばかりの頃はそれこそ今よりずっと幼かったから、たとえば体育の授業で掌や膝を擦りむいただとか、図画工作の時間に彫刻刀で手を刺してしまっただとか、俺やミリオやクラスメイトが怪我をするたびに、患部に手を当てたさんがそう唱えるとたちまち怪我が治るのだから当時は相当驚いたものだ。
 ヒーロー科は戦闘訓練や実地演習があるため、怪我を負う可能性が他科より圧倒的に多い。三年生になった今でこそ入学当初よりかはその頻度も減ったけれども、それでも不可抗力で負うことはある。そんなときは大抵、それこそ三年生は殆どがリカバリーガールよりもさんの元へ赴いて治癒を施してもらう。治癒の代償に体力を消耗することがないから疲弊により授業中に居眠りしてしまうなんて憂慮の必要がないし、寧ろさんに治してもらうことでフィジカルもメンタルも悠々とした気持ちになるのだから、彼女を選ぶのは道理というものだ。イレイザーヘッドの言葉を借りるのであれば非常に合理的というやつだろう。

 以前にふたりで出掛けた際、公園の近くでちいさな女の子が怪我をしている現場に遭遇したことがある。大凡小学一年生くらいの子で、友達と遊んでいる最中に転んで膝を擦りむいたらしかった。痛々しく血の滲む擦り傷を視認して泣きじゃくる女の子に、さんがにっこりと笑顔を向けて患部に手を添える。そして「いたいのいたいの、とんでけ〜」と握った手の中にあるものを放る動作をすると、痛みが消えたどころか擦り傷も治っていることに気づいた女の子は暫しぽかんと口を開けていたけれども、みるみるうちに表情がぱっと明るくなって、くるりとまるい瞳を細めた可愛らしい笑顔でおねえちゃんありがとう!と礼を言ったのだった。さんはどういたしまして、と女の子の頭を優しく撫でながら鞄のポケットから飴玉を取り出すと、女の子とその友達の紅葉のようなちいさな掌にそれを落とした。それら一連の動きが昔と全く変わっていなかったものだから、俺は女の子たちが手を振りながら立ち去るまで、さんに気づかれないようひっそりと笑いを堪えていたのを思い出す。

 さんは軽いおまじないのような、或いはルーティンのような扱いで使っているけれども、少なくとも俺にとってのそれは、今も昔も魔法の言葉だったのだ。

「あ、環くん、お疲れさま〜」
「……ああ、さんも」

 自分の番の演習を終えたのか、ヒーローコスチュームのケープを腕に掛けたさんがふわふわと笑って隣に並んだ。頭のてっぺんに近い高さで結われたポニーテールが動きに呼応して揺れる。
 今日のヒーロー応用学は自然災害時に於ける一般市民の救助を軸にした訓練で、どうやらくじで火災ゾーンを引いたらしいさんは早々に演習を終えていたらしかった。太陽の個性を持つさんは熱に強い。本人にしても、火災ゾーンでの救助演習は比較的得意であったろう。
 とはいえ、それでは水場に弱いのかと言えばそういうこともなく。去年だったろうか、同じような救助訓練で水難ゾーンを割り当てられたさんが水中に飛び込んだ途端、まるで海を割るモーセの如く周囲の水がさんを避けるように蒸発して気化したのは。結構凄まじい光景だったので、未だ記憶に鮮明だ。水を割って悠々と被災者を助けるさんの姿には流石の13号も苦笑いを禁じ得なかったようだった。
 そのときさんは「しゅららぼんみたいだったでしょ」と笑っていたけれども、正直そのネタはあまり通じなくて申し訳ない気持ちになったのも覚えている。後に検索したところ、しゅららぼん、とは或る小説の中で登場する擬音らしかった。日向ぼっこと同じくらいに本を読むのが好きなさんは、よく図書室にも赴いて本を借りてきている。けれども、それは時に『ヘルメス文書』であったり『千一日物語』であったり『魔王』であったりして、そのチョイスはなかなかマニアックだ。先日は確か『エメラルド・タブレット』を読んでいて、どんな内容かと訊いたら錬金術の本だと返ってきたからやっぱりマニアックだと思ったけれども、口には出さないでおいた。
 閑話休題。

「13号先生、やっぱりかわいいよね」

 朗らかに笑いながら13号を眺めるさんに、そういえば彼女はスター・ウォーズのR2-D2が好きだったなと思い至る。確かファットガムのことも可愛いと言っていたから、やはり女性はああいったフォルムが好きなのだろうか。
 ちら、と視線をさんに遣って、ふと気づく。

「……さん、ここ」
「え?」

 さんの、すべらかな右の頬に手を添えた。白磁の肌に付着した微かな赤。僅かではあるけれども血が出ている。すい、と親指で擦るように滑らすと、痛みが走ったのかひくりとちいさく肩を震わせて目を細めた。

「瓦礫かなにかに擦ったのかな、気づかなかったや」
「……すまない、痛かっただろうか」
「ううん、大丈夫だよ」

 大丈夫、と言われても手を離さない俺を怪訝に思ったのか、環くん?と名前を呼ばれる。けれどもそれに返事はせず、再度傷に指を添えるように動かす、そして。

「――いたいのいたいの、とんでいけ」

 それは、殆ど無意識だった。
 ぼろりと口の端からこぼれ落ちた言葉に、さんがそっと息をのむ。
 ハッと気づいたときには既に手遅れで、ぽかんとしたさんの顔を見てじわじわと顔に熱が集まっていくのが分かった。

「っあ、いや、あの……っ」

 慌てて汗ばむ手を離そうとしたけれども、それより早くさんが俺の手にみずからのそれをそっと重ねる。そして俺の掌に擦り寄るように頬を動かすものだから、思わず身体が硬直した。ふふ、とまるで幸福を噛みしめるように笑うさんから目が離せない。まるでやわらかく心臓を撃ち抜かれたような心地だった。
 胸がわけもなくどきどきする。事細かに言えば動悸の理由は他ならぬさんなのだけれども、それでも恐らくはこの形容が一番正しい。わけもなく、どきどきする。

「ありがとう、環くん」

 そうしてひどくたおやかに微笑むその表情に、紡がれるその言葉に、俺は嬉しいやら恥ずかしいやらさんが愛しいやら可憐やら憎らしいやら愛しいやらでなんだかよく判らない気分になる。
 依然熱い顔のまま、うん、とだけ返事をして僅かに唇の端を噛んで俯くと、すこし身を屈めて俺の顔を覗き込むさんの表情に、俺はまた、心臓を撃ち抜かれたような気分になるのだった。