※○○しないと出られない部屋

純情なら売るほどあるんだ



 【この部屋からは、お互いがキスをするまで出ることはできません】

 そんなふざけた司令文面が印字された扉の掲示に目を遣って、制服姿の俺とさんは暫く沈黙を纏い立ち尽くしていた。ちら、と横目に隣を見るとさんは唖然と口をちいさく開けたまま硬直していて、その様子にどう話を切り出したらよいものかと俺は頭を悩ませる。この状況下で壁に向かうようなことは、さしもの俺にもできはしなかった。
 キス。接吻。俺とさんは付き合いこそ長いけれども、交際を始めたのはごくごく最近のことで、俺の知る限りではお互いに初のこいびとだと把握している。そしてお察しの通りキスは未遂であって、確かに一般的な高校生の恋愛に於いて比較すると進展は些か遅い部類であるかもしれない、けれどもそこに不満や焦りなど一抹も存在してはいなかった。こんな展開、ただのお節介だ。
 だいたい、先程まで普通に廊下を歩いていただけだというのに、突然なんの前触れもなくこの空間に放り込まれた意図がわからない。誰かの個性による恣意的なものなのか、はたまた制御不可下における事故なのか、そもそもこれは個性の仕業なのかすらも。
 確認の手立ては未だ見つからず、机や椅子などの家具類は勿論なにひとつとして障害物のないおよそ教室ふたつぶんはありそうな体積の真っ白な空間の中で、ドアノブのない扉だけが異様な存在感を放っていた。

「…………あの、さん」

たっぷり五分程は保っていたであろう沈黙を裂くように恐る恐る声を絞り出すと、ハッと漸く我に返ったさんはしかし返事をすることはなく、腕を引いてぐっと拳を握る。えっまさか、と思っていると、めらりとさんの拳に纏われた陽炎が揺らいで、すう、と軽く息を吸ったかと思うと助走をつけるようにステップを踏み、そのまま扉に向かって右ストレートを叩き込んだ。ドゴ、と鈍い音が部屋に響いて、巻き起こった熱風がぶわりと髪を靡かせる。

「……うそでしょ」

 ゆっくりと腕を下げたさんが呆然と口を開く。
 およそ十万度はあったであろう熱を纏った拳を叩き込んだ扉はしかしびくともせず、衝撃吸収でもしたかのように僅かばかり煙を昇らせただけで傷ひとつとしてついてはいなかった。これが普通の扉であれば恐らく夏場のチョコレートのようにどろりと融けていただろう。どうやら更にお節介なことに個性行使による扉の破壊は不可能であるらしい、さんの個性でも打破できないのであれば、例えば俺が貝を再現して扉を殴ったとて結果は恐らく変わらない。なにがどうあっても司令は司令として遂行しなければいけないということらしかった。それがわかったのはいいけれども、無言で扉を殴るのは流石に驚くからやめてほしい。

「うう……今すぐミリオの個性がほしい……」

 両手で顔を覆ってそう呟いたさんは明らかに錯乱している。確かにミリオの個性を使えば扉をすり抜けることも可能かもしれないけれども、そうすると当然透過しない服は落ちるわけで。全裸になるのは勘弁してくれと心中を以てひっそりと思った。

「……あの、さん」

 先程と同じ台詞で呼びかけると、顔を覆っていた両手をおずおずと外して窺うようにこちらを振り向いた、今にも泣き出しそうに眉尻を下げて瞳を潤ませたその顔が、まるでりんごのように真っ赤だったから。
俺はかっと身体が熱くなるのを感じて思わず目を逸らす。
 さんはずるい。この局面でそんな表情をするなんて。
 心臓がちりちりと痛む気がして、胸元をぐっと握った。きっと今は俺も彼女と同じくらい、もしくはそれ以上に顔が赤くなってしまっていることだろう。

「……ね、環くん」

 くん、と袖を軽く引っ張られる。さんの頬は依然ほんのりと赤く染まっていたけれども、合わせた目はどこか覚悟を決めたように真っ直ぐだった。

「わ……、わたし、環くんとだったらいい、よ」

 するりと俺の手に触れながらの言葉に、がつんと鈍器で頭を殴打されたような衝撃が脳髄を揺らした。折角鎮静してきた身体の熱がぐわりとぶり返す。さんは、ずるい。俺はひそやかに舌の端を噛んだ。頭がぐらぐらする、頭痛とは違う感覚で。心臓の音が耳の奥で響いてうるさい。

「……俺は、さんじゃなきゃ、いやだ」

 恥ずかしいことを言っている自覚はあるし、顔が熱くなっている自覚もある。心臓の音はやっぱり煩いくらいの高鳴りをもって耳に届いて、もうだんだん自分が何を考えているのかすらもよく分からなくなってきた。今すぐにでも走ってこの場から逃げてしまいたいけれども、俺の手を握るさんの手が熱い。こんなのもう、逃げられるわけがない。
 握られていない方の掌でさんのすべらかな頬を包む。緊張によってひんやりとした手の冷たさにさんが驚いて瞬きをするよりも早く、俺は彼女のふっくらとした桜色のくちびるにみずからのそれを押し当てていた。

「ん、……っ」

 すこし気持ちの悪い感想かもしれないけれども、さんの唇は思っていたよりもずっとやわらかかった。
 なだらかな丸みを帯びたさんの後頭部、髪を掻き回すように手を差し入れる。触れてはすぐに離れて、息を詰めた彼女の呼吸を奪うようにくちびるを食んだ。

「……ん……、ぅ」
「ふ……」

 ぎゅっと目をつむって俺の腕の中で体を硬くさせるさんが愛おしくて、角度を変えて些かしつこいくらいに口付ける。わざと音を立てるようにすれば、さんは俺の手を掴むちからを一層に強くさせた。眉根を寄せて口づけに耽るさんの拙さが、俺の焦燥感をじりじりと焦がす。

「……ふ、……ぁ……っ」

 ぎゅっと目を閉じて俺の舌先に応えるだけでいっぱいいっぱいのさんは、いっそ背徳感を覚える程従順に俺の舌を迎え入れた。怖がるように奥に引っ込められた彼女の舌先を執拗に追って強引に口内を探る。遠のきそうな意識のなかで扉の方からガチャリ、と錠の解ける音が聞こえた気がするけれども、途中でやめるなんて選択肢は端から存在していなかった。握られていた手を一度離して、今度は指同士を絡ませるようにして繋ぐ。先程までは散々お節介だと思っていたというのに、現金なものだとみずからの浅ましさに呆れてしまった。
 さんの舌は火傷してしまうのではと憂慮してしまう程に熱くて、絡ませるたび体温も上昇していく気がする。お互いの体温を交換するような深い口づけに俺が漸く満足して離れる頃には、さんはすっかり息が上がってしまっていた。

「……緊張、した?」

 口の端に溢れた唾液も拭えずに荒い息を吐くさんの口元に親指を滑らせて我ながら意地悪くも問い掛ければ、彼女は甘く痺れた舌先をもたつかせながら、すこし、ね、とどうにか声を絞り出して仄かに微笑んだ。さんは僅かに慄くように息を飲みつつも、俺の胸、心臓の辺りにそのてのひらをそっと当てる。

「……環くんも……」

 とろんとどこか蕩けたような表情で俺を見上げる。

「……どきどきしてる、」
「っう、ん……」

 ああ、しんでしまいそうだ。
 未だ繋いだままのさんのてのひらが触れる手が熱くて汗ばむ。からだの表面で、愛しさがひそやかに燃えるようだった。

「……すきだ」

 涙はきっと身体が破裂してしまわないためにあるのだと思った、なぜなら瞳から溢れるそれには際限などない。どうしようもなく涙が含まれた情けない声はさんの耳にも届いただろうか、もしも届いていないのであれば何度だって言ってしまおう、好きです好きです、死ぬほど、死んでしまったほど、好きです、貴女だけ。
 環くん。誰よりも正しい発音で俺の名を呼んださんの声が鼓膜にこびりつく。
 俺を貶めては圧倒的質量で痛んだ胸を満たしていく甘美な罠の正体を俺は知っている。愛だ。