奇跡のひと



「まさか、環がと結婚するとはなあ」

 出会ったばかりの頃には想像もつかなかったよね、なんて悪戯っぽく笑ってミリオが日本酒の杯を呷った。
 さんやミリオとは相反するようにアルコールに弱い俺は、ウーロン茶の注がれたグラスの外側に溜まった水滴をおしぼりで拭いながら相槌を打つ。個性を使うときに失くしてしまうと困るからと、平素は滅多につけることのない左手薬指に嵌めた輪が蛍光灯の明かりに反射してきらりと光る。
 がやがやとした居酒屋の喧騒は独特で、学生の頃頻りに利用していた食堂のそれとは似て非なるものだった。どんなに思いを馳せたところで俺たちはもう十七歳と十八歳のあの頃には戻れないし特に戻りたいと思っているわけでもないのだけれども、お互いに年を取ったのだと、僅かばかり感慨深い気持ちになったのは事実だ。

「まあ、環がを選んで、が環を選んだ時点で、多分ふたりはこのまま一緒になるんだろうなとは思ってたけどね」

 鯨の竜田揚げを箸でつつきながらそう言ったミリオに、俺はさんに出会えたことは俺の人生最大の奇跡そのものだと思っていることを言葉に出すべきか否か暫し迷って、けれども結局口を噤むように曖昧に頷いてウーロン茶を喉に流し込んだ。

 俺はちゃんと結婚できるのか、こんな俺でも結婚してくれる相手に巡り会えるのか、巡り合った奇跡の相手と家庭を築くことができるのか。なんでもない日常のなかでごくまれに、ふと思う時があった。
 それは懸念だとか憂慮だとかそういう負の感情を助長させるものではなく、ただ漠然とした疑問ではあったけれども、少なくとも俺は俺を地味でつまらない人間だと思っていたし、ましてやそんな俺と付き合ってくれるひとなどいるわけがないと諦念していた。
 そう、さんに出会うまでは。

 ミリオと同時期に出会ったさんは決して集団の中心にいるような目立つタイプではなかったけれども、誰にでも分け隔てなく優しく、そしてとても笑顔が似合うひとだった。
 俺が緊張して個性を思ったように扱えずにいたときも、ひととうまく話せないでいるときも、救けてくれたのは殆どがさんで、思えば俺がつらいときには大体彼女が側に居てくれたように記憶している。
 穏やかな彼女は優柔不断な俺を決して責めない。気体としてからだのなかを流動していた感情が液体となって溢れるまで、液体となったそれが凝縮されて固体になるまで、焦れることも催促することもなく待っていてくれる。まるでこころの奥底に棲みついた憂鬱を融解させるような穏やかさとあたたかさを携えたそれは、今も、昔も変わらない。

「俺はさ」

 空になったらしい杯に手酌をしながらミリオが口を開く。その目元はすこし赤くなっていて、呑むペースも量も平素と特別変わりはないというのに、どうやら今日は早々に酔いが回っているようだった。

「環は個性も強いし、本当はすげェ明るくて楽しい奴だってわかってるし、だから環となら、どんなときもお互いの味方でいられて、安泰した生活ができるんじゃないか、って思うんだよね」

 その口振りに、もしかして俺が気づいていなかっただけで、ミリオは俺がさんへの恋慕を自覚するずっと前からこの結末を分かっていたのかもしれないと思った。そんなまさか、と一瞬かぶりを振りかけたけれども、相手をよく見て予測を立てることはミリオの十八番であったことを思い出す。
 もしこの仮定が俺の思い込みなどではなく真実なのだとしたら、それは一体いつの頃からだろうかと逡巡し、けれども深く考えても仕方がないと再びグラスに口をつけた。

「環。を選んでくれて、ありがとう」

 焦った。
 涙が出るかと思ったのだ。
 目頭に熱が集中して、鼻先がじんとした。滲む視界と掠れる呼吸を誤魔化すように強く目を瞑って口をつけていたグラスをぐっと呷ると、ミリオは照れくさそうに笑ってみずからも杯を呷った。

 さんと同棲をして五年半、夫婦となって一年半、彼女と同じ食卓に着くことができるただそれだけで幸せだったというのに、この身を取り巻く幸福には際限がない。そうして、幸福はときに身も心も弱らせる。じきに衰弱しきって死んでしまいそうだ。
 幸福に浸る毎日でこころは次第に弱っていった。今やただの臆病な男へと成り下がってしまった気がする。たとえば誰かひとりの犠牲で世界平和が訪れるだなんて夢のような契約を持ち掛けられても絶対に応じることはできない。さんに出会う以前の俺なら喜んでこの身を捧げたかもしれないけれども、今や彼女の手を強く握って首を横に振る程度のことしかできなくなってしまった。幸福が俺を臆病にした。けれども、それでもいいと思える程に彼女の価値を見出した。

「……こちらこそ、ありがとう」
「はは、なんだよそれ」

 大根サラダを取り皿に摘まみながら、至極おかしそうにミリオが笑った。その姿に無理やり誤魔化すように引っ込めた涙がまた溢れそうになってしまって、思わず俯いて鼻を啜る。ず、と音が鳴ってしまって、それはきっとミリオの耳にも届いていただろうけれども、どうやら聞こえない振りをしてくれているようだった。

 ありがとう、それは俺こそがミリオに言いたいことだった。

 ありがとう、あのとき俺に話し掛けてくれて。
 ありがとう、今まで彼女を守っていてくれて。
 ありがとう、彼女を好きになることを許してくれて。
 ありがとう、彼女と幸せになる大役を譲ってくれて。
 ありがとう、俺をヒーローにしてくれて。

 俺はミリオと、さんと、みんなと出会えて幸せだ。今も、昔も。
 そして、こんな俺でも愛してくれる俺の奇跡の人はさんで、さんと俺はこれからふたりで幸せになっていく。今はまだ恥ずかしくて素面では滅多に言葉に出すことができないけれども、彼女を愛している事実に代わりはない。それでもまだ願うことが許されるのならせめて、彼女にとってのヒーローになりたい。彼女にとってのヒーローであり続けたい。

 幸せをちいさな両腕いっぱいに抱えて未来で待っている命を、いつか俺が迎えに行くために。