あたたかな酸素



 ふっ、と微睡んでいた意識が浮上する。未だ重い瞼を閉じたままにわさりと布団の中で手を動かしたけれども、隣にあった体温は既に消えていた。トントンと規則的な包丁の音と、ちいさな鼻唄、窓の外で飛び回る雀の鳴き声が耳に届く。朝が来たのだ。

 同棲を始めてかれこれ五年、さんに結婚を申し込んでから、一年。寝室を同じくして漸く知ったことだけれども、さんは目覚まし時計を使わない。太陽の個性を持つ彼女の体内時計は電波時計とほぼ同等の精確さを有しているからだ。聞けば、平素起きるべき時間になれば自然とぱっちり目が覚めるらしい。それが個性の発現から今に至るまでずっと続いてきたというのだから凄いことだ。さんは滅多に惰眠を貪ることをしない。思えば彼女は寝つきも良ければ寝起きも良いから、凡そ低血圧とは無縁の生活をしてきたようだった。

 隣にあるべき体温のない布団からのそのそと這うように抜け出した後、寝室のカーテンを開け、布団を軽く畳んでからリビングへ繋がる扉を押し開く。寝癖のついた髪を撫で付けながらすん、と嗅覚を働かせればふわりと味噌汁の匂いが鼻腔を擽った。

「環くん、おはよう」

 ラフな部屋着の上に白いエプロンを着けたさんが、右手に菜箸を携えたままにぱっと可憐な笑顔を向けてくれる。ころりと鈴の転がるような華奢な声色で挨拶を受けてそこで漸く、自分の中で一日が始まった気がするのだ。

「おはよう、さん」
「うん。朝ごはん、できてるよ」

 二人がけのダイニングテーブルに着くと、既に白米と味噌汁がほかほかと湯気を立たせていて、日本食特有の匂いが起き抜けの身体にじんわりと沁み入るようだった。
 仕事の関係で大抵俺よりも遅くに眠りに就くさんは、大抵俺よりも早く起床し朝ごはんを用意して俺が目覚めるときを待っている。朝ごはんは大抵和食で、俺の個性を慮ってか、タコや鶏肉、アサリがラインナップに上がることが多かった。
 以前に俺に合わせて同じものを食べる必要はないと提言したことはあったけれども、さんは笑って誤魔化すばかりで、結局未だに毎日、彼女と同じものを食べて朝を迎えている。稀に気を遣った末に俺から焼き鮭であったり目玉焼きとトーストであったりを朝食にリクエストするときは、アサリのしぐれ煮やタコのカルパッチョが小鉢に盛られて添えられるのだ。酒の肴かと思ってしまうこともないとは言えないけれども、文句などつけようとは思わない。そもそも、学生時代にさして料理上手と言えるわけでもなかったさんの腕がここまで上達したのも、ひとえに俺のためなのだとわかっているから、一層のこと何も言えなくなってしまう。

「はい、めしあがれ〜〜」

 先程焼いていたのであろう鮭とだし巻き玉子、牛肉のきんぴらとアサリの小鉢がテーブルに置かれる。俺がいただきます、と手を合わせて白米を口に入れるのを見届けて漸く、さんも手を合わせて味噌汁に手を伸ばす。

「今日は環くん非番だっけ?」
「うん」
「そっか、じゃあ今日は二人でいられるね」

 ふふ、とひどく柔らかな笑顔を浮かべて、さんは笑う。そして焼き鮭と白米を頬張った。とてもとても美味そうに。
 今まで個性のための食事を重視してきたし、さんも俺の個性を考慮した食事のメニューを組んでくれることが殆どだけれども、俺はさんと一緒にごはんが食べられるのならば、なんだっていいと思った。生命維持の必要行為に幸福を見出す彼女との生活には、ささやかですべやかな光が溢れている。

「……、今日もおいしいよ」
「ふふ、ありがとう」

 ふいに、泣きたくなってしまった。
 さんを世界中の誰よりも幸せにしたかった。俺にそんなスーパーマンのようなちからが備わっていると驕るわけではないけれども、せめて間近で彼女が幸せでいることを見守る大役を賜ろうと結婚を申し込んだ。
 俺と食べるごはんがおいしいと幸せだとさんは言う。俺の帰りが早いと憂慮することがなくて嬉しいとさんは言う。

「ごちそうさま」
「はい、おそまつさまです」

 食べ終わるタイミングは大抵ほぼ同じくらいになって、食器類をまとめてシンクに運ぶと、さんは食事を終えた頃にと見計らっていたのか、ドリップの済んだコーヒーを揃いのマグカップに淹れてリビングに戻ってきた。色違いでお揃いのDハンドルマグカップは、同棲を決めたときに二人で雑貨屋に行き一緒に選んだもので、青が俺のもの、オレンジがさんのものだ。
 以前はコーヒーだけは俺が淹れていた。けれども、いつの間にか自分で淹れたものより、彼女が作る方が舌に馴染んでいる。それがとても喜ばしいことに思えて、鼻に抜ける香ばしさにほうと息を吐いた。ひとつひとつのことを共有していくことが、独占欲よりも穏やかに俺たちの間を流れている。

 さんを世界中の誰よりも幸せにしたかったのだけれども、世界中の誰よりも幸せになったのは俺だった。そのへんに落ちている幸せを聡い両手で拾い上げて、ありとあらゆるものものに気付くことができないでいる鈍い俺のてのひらにひっそりと落として、その両手で包み込んで、彼女は素知らぬふりで微笑んでいる。

「ね、環くん、疲れてなかったら一緒にお散歩行こう?あのね、近くの公園、花壇があるから蝶々さんも見れるの」

 環くん、蝶々さん好きだもんね、と鮮やかに微笑んで、鼻唄でも歌ってしまいそうなうきうきとした表情でコーヒーを啜るさんの顔がとても幸せそうなものだから、俺まで平素は硬い表情筋が弛んでしまう。

 さんの声が耳朶を擽るたびに、胸に秘めた愛が唸る。彼女が好きだ。愛している。
 そして、俺は思い知る。
 早朝の寝室まで届く包丁がまな板を叩く音。郵便配達のオートバイのモーター音。少し離れたところにある小学校の鐘の音。耳触りの良い音はいくらもあるけれども、彼女の声に勝るものはない。