甘橙



 寿命というものは大凡、大抵のものに等しく分配される。けれども、それは生物だけに限った話ではない。
 中でも、恋の寿命は凡そ三年、と言われているらしい。
仮にそれが本当なのだとして、三年で相手への恋心が萎んで消えてしまうのだとしたら、俺は今までに何度、彼女に恋をしているのだろう。

「――……結婚、しよう」

 ことり、コーヒーで満たされたマグカップをダイニングテーブルに置いて口を開くと、ふたりしかいない2DKの部屋のリビングに沈黙が下りた。開け放した窓から風が吹き込んで、彼女と俺の髪を僅かに揺らしている。テーブルに着いて同様にコーヒーを啜っていたさんは、びたりと硬直したまま動かない。相当に動揺しているのか、わかりやすく狼狽に揺れる翠の双眸に、綺麗だ、なんて幾度も思った感慨が脳裏に浮かぶ。

「……た、環くん、いきなりどうしたの」

 たっぷり十秒程経って、漸く我に返ったのか、はっとしたように肩を震わせて、それでも依然として動揺の隠しきれない様子できょときょとと視線を彷徨わせながら居住まいを正す彼女に、いきなりじゃないよ、と心の内でのみ言葉を返した。

「……、いくら恋人同士でも結局、法的には他人と同じ扱いなんだ。俺は、万が一さんになにかがあったとき、一番に駆けつけられる存在でありたい」

 さんの、桜色の唇が震えて、すべやかな頬が桃色に色づいて、翡翠色のまるい瞳がうるりと揺れた。
 さんと出会って凡そ十三年、交際を初めて五年。雄英を卒業してプロヒーローになってからは既に四年も経っている。同棲を始めたのも卒業とほぼ同時だ。それまでの中で彼女を心配させてきたことなんて、両手では足りないくらいに嫌というほど思い当たる。病院に搬送されたことだって片手では収まりきらない。
 俺たちがまだ高校三年生で、ヒーローインターンの折に死穢八斎會に乗り込んだときの話になるけれども、俺が病院に搬送されたことを耳に入れて見舞いに来たさんは、受付で俺との関係性を訊かれ、答えることができなかったのだという。俺がそれなりに重症であったのも要因のひとつなのだけれども、通常こういうときは親族でない限りは面会は不可能であって、俺たちは血の繋がった家族ではないのだから、当たり前と言えば当たり前だ。結局はイレイザーヘッドやスナイプ先生らが気を回してくれたようだったけれども、思えば俺はその時からずっと、この関係性の落とし処について考えていた。
 これを本当に恋愛感情と言い切っていいのか、もしかしたら寂しさを埋め合わせているだけではないのかだとか、躓いたときに道連れにできる誰かが欲しいのかだとか、誰かに想われている安心を実感として手に入れたいのかだとか、疑念は絶えず心臓の裏にへばりついていた。たとえば、なんらかの意味を持って生まれてきたというのであれば、それは決して恋愛にかまけるためではないと思っていた。
 けれども、いまやこのからだとこころは彼女を愛するためだけにあって構わないと思っている。

「もう心配させないだなんて、絶対的な約束はできない、……でも、ちゃんと、さんの処に帰ってくるから、だから」

 貴女を、俺の帰る場所にさせてくれないか。
 そこまで言ったところで、さんのきれいな目から大粒の涙がぼろぼろと零れていることに気がついて、僅かにぎょっとした。彼女は昔から泣き虫で、それは今でも変わらない。

「……わっ、わたしも、っ」

 ほたほたと止めどなく溢れる涙を拭うこともしないままに立ち上がって、さんが声を震わせた。がたりとダイニングチェアが音を立てる。テーブル越しに手を取られて、両手でぎゅっと強く、強く握られる。その瞳に、声に、姿に、手の温度に、ぐっと胸が詰まって、鼻の奥がツンと痺れた。

「わたしも、ずっと、ずっと考えてて、もしわたしが環くんと、ちゃんと家族でいられたなら、なにかあったとき真っ先に連絡が来て、駆けつけられるのにって、」

 さんは目を離すと、蝶のようにひらひらとどこかへ飛んでいってしまいそうだから、手元に繋ぎ留めて縛り付けておける明確な理由が欲しかった。彼女を他でもなく俺自身の手で幸せにしたかった。彼女の手を離したくなかったのは、他でもない俺自身だった。
 彼女を手中に捕らえておきたいなんて、まるで虫籠のようだ、とみずからの浅ましさに失意したこともあったけれども、さんを幸せにしたいという気持ちに欺瞞などなかった。それがたとえエゴだとしても、彼女が笑って俺の世界に居てくれるならばそれだけでいいとすら思っていたのだ。

「環くんは強くてすごいから、わたしが足枷にはなりたくなくて、でも、ごめんね、わたし、環くんと一緒に生きていたいよ……っ」

 ぼたり。涙が落ちる。さんのではない、俺の涙だ。彼女はひどいひとだ。俺の機能を著しく低下させることも、それを普段通りに修正することも、いともたやすくやってのける。呼吸が乱れるのは、喉の奥に愛しさが溢れているからだ。いつの間にか俯いてしまった顔を上げられないのは、目の奥から溢れる涙が重いからだ。唇に触れる涙が塩辛い。

「……ね、環くん、一緒に、幸せになろうね」

 その言葉にはっとした。きっと、俺が本当に言いたいことはこれだった。余った方の片腕で乱暴に両方の目元をぐいと拭って、顔を上げて、さんに視線を合わせる。うん、と掠れた声でひとつ頷くと、目尻に涙を滲ませたままに、さんがひどくたおやかに笑った。俺の一番好きな、彼女の表情だ。
 たとえば、なんらかの意味を持って生まれてきたというのであれば、それはさんを愛するためだ。たったそれだけで構わないと思っている。たったそれだけで満たされている。
俺の手を包むさんの手の甲に、ぱたりと一粒の涙が落ちた。指を通じて流れ込む体温を感じながら、俺はゆっくりと瞼をおろす。

 彼女は、俺の、片割れのオレンジだ。