※「蝋の両翼」視点別

イカルスの献身



 嫌な予感は、していたのだ。

「―――……環くん、」

 人払いをした病室。呼吸機器をつけられていることによって拡張される空気の規則的な音だけが響いている。本来ならわたしもインターン中なわけだから顔を見ることなどできはしないのだけれども、相澤先生と担任が気を遣ってくれたのか許可を出してくれた。職権乱用?どうとでも言ってくれ、とにかくわたしはただ、真っ白な病室で真っ白な包帯にまみれてそれこそ死んだように眠る彼に死んでほしくないだけなんだから。

「……たまき、くん」

 返事をしてもらえないことはわかっている。わたしもそこまで馬鹿ではない。
 環くん程ではないがミリオも充分重傷の重態で、彼の筋肉質な腕や腹に巻かれた真っ白な包帯を見た途端、叫び声を上げそうになった。本人はさして痛そうにするでもなくいつも通り笑って接してきたけれども、怪我人は療養をするべきなのだと無理矢理にベッドへ寝かしつけて、わたしの個性で治癒を施したのはついさっきのことだ。

 ヒーローはこの超人社会の時世にはもってこいの安定した職業だと思う。しかし経済面に対して安定していることと、我が身の保障に対して安心できることはイコールでは結ばれない。ヒーローの仕事はいつでも危険、所謂死と隣り合わせだ。いつどこで、如何な理由で誰が命を落とすかわからない。文字通りに命を賭して人々を守るのが仕事なのだ。

「……環くん」

 彼は自分の命をなんだと思っているのだろう。常々、わたしやミリオに無茶をするな、といつも自分が言っているくせに。環くんが強いことなんて充分にわかっている、けれども信頼をしていても心配はしないわけじゃない、それだけはわかってほしいのに。
 今の彼が生きている証拠は呼吸で胸が僅かに上下するさまでしか確認できない。勿論こんな大怪我、したくてしているわけでは決してないことは理解しているつもりだし、むしろあの死穢八斎會に乗り込んで五体満足で生きていることに安堵するべきなのかもしれない。

「…………はやく起きてよ、環くん……」

 名前を呼ぶことでしか彼の存在を確実視できない自分が心底恨めしいと思った。声が震えるのはなんでだろう。今の状況を受け入れることなんてできなくて、もし彼がいなくなってしまったら、そのことを考えるとぞっとした。
 つまるところわたしは、目の前で人が亡くなるのを見るのが、怖いのだ。自分が死ぬのも、怖い。知らないままでいたいなんて、もし先生に聞かれたら怒られるかもしれないけれど、それでも。

「…………、」

 ひゅっ、と一瞬、規則的な環くんの呼吸が乱れた。先ほどまで微塵も動く様子のなかった腕がほんの僅かに揺れる。

「……、……」
「……環くん?」

 名前を呼んでみても返事はなく、口元に当ててある呼吸器のせいで、シュー……と空気の抜ける音しか聞こえない。それがひどくもどかしく感じて、更に近づくために枕元に手を置くと、ギシリとスプリングが軋んだ。

「――、るか……」
「……た、環くん?」

 今日で何度呼んだかわからない彼の名を呼ぶ。相変わらず返事は戻ってこない。それは本当に僅かで、空気の震えさえも感じられない囁き声のような小ささだった。けれども確かにわたしにはその小さな声がはっきりと聞こえ、そっと瞠目する。

「―――……、ぁ……」
「……っ!」

 薄らと開いた目を視認した途端、ぐわりと目頭に熱が集中したのがわかった。鼻の奥がじんと痺れて、視界が歪む。彼は虚ろな目でゆっくりと部屋を見渡し、漸くその目にわたしの姿を捉えたようだった。

「……さん、」
「……環くん、ほんとうに無茶するよね」

 ああもう、こんな可愛くないことを言いたいわけではなかったのに。でも、今回限りは、少しは強めに言ってあげないとダメなのかもしれない。

「……心配、したんですけど」
「……すまない」

 絞り出されたような謝辞に返事をせず、わたしは無言で環くんのてのひらに触れた。ミリオと比べたら随分華奢だけれども、それでも充分に男らしい、ごつごつとした無骨な手。わたしが好きな、彼の一部。この手でどんな戦いをしてきたのだろう。けれども、そんな愚考は彼の手の温度に溶け込んだ。悲しみが霧散していくような感覚。ああ、よかった。だいじょうぶ、生きている。それらの言葉がふわふわと浮かんでは消えていく。

「……、すまない」
「いいよ、もう。別に、怒ってるわけじゃないし、生きて帰ってこれたんだから」

 ふっとため息を零すように苦笑すると漸く安堵できたようで、肩が少し軽くなった。環くんの手から伝わる確かな温度と鼓動を感じながら、そっと目を伏せる。

(……貴方が無事なら、それだけで)

 そう言えなかったのは、わたし自身の弱さのせいに他ならない。死は、まだ怖かった。けれど、彼と、環くんと生きることはとても優しいものに思えた。どこにも恐怖なんてなかった。わたしは多分、きみと生きたくてしょうがないんだ。