※No.139〜142、捏造有り

蝋の両翼



「俺なら一人で三人完封できる!」

 その言葉に嘘はなかったし、油断をしていたつもりもなかった。足止め要員にプロの人員を割くのは得策ではないからと多少無理をしたのは否めないけれども、今回俺たちの目的は敵を倒すことではない、ならばやるしかないと腹をくくる他なかったのだ。けれども、俺が思っていたよりも連中には信頼と連携力があって、攻略法を見極めるのに手こずりすぎてしまったのもまた事実だった。
 鈍く痛む全身と薄れゆく意識の中で脳裏に浮かんだのはさんの顔で、ああ彼女は心配性だから、またきっと無茶と無理を押し通したことを怒られてしまう、泣かれるのは少し困るな、なんて思ったのを最後に、ブツリと意識は途切れた。



「―――……、」

 声が聞こえる。知っている声だ。名前を呼ばれている気がして、起きなければ、と思うのだけれども徐々に覚醒する脳と巡る思考に反して、身体は言うことをきかず目は開かない。顔や身体に痛みはないから恐らく治癒は施されている、身体にひどく怠さを感じているところから鑑みてリカバリーガールだろうか、と思考を巡らせたところで、また声が聞こえた。

「……環くん」

 ……ああ、さんの声だ、と唐突に理解した。これは、幻聴だろうか。お互いに暫く忙しくしていたし、今回の作戦はさんにだって話せないものだったからなんだかとても久しく感じてしまう。彼女の人柄を如実に表した陽だまりのようなあたたかい声が、疲弊しきった身体に沁み入るようだった。

「…………はやく起きてよ、環くん……」

 先程よりも僅かに、でも確かに震えを滲ませたその声色に思わず息を呑んだ。静謐な湖面のような穏やかさを保っていた意識に言葉という小石を投げ込んで波紋を起こした声は、平素の慈愛からは程遠く、生に縋りつく人間の本性を露わにしていた。人前では滅多に泣かないさんの、今にも嗚咽が漏れそうな声とか細い呼吸の音がいやに明瞭に聞こえる。幻聴では、ない。
 わかっている、彼女を悲しませている原因は俺だ、それはわかっている、けれども身体は軋むばかりで言うことをきいてくれはしない。もどかしさに息を吐く。

「……、……」
「……環くん?」

 口からは声にならない呼吸が漏れるだけで、けれど、どうやらさんはそれに気づいてくれたらしい。彼女にひどく心配を掛けさせてしまったと、理解はしている。さんは置いていかれることを極端に嫌う。ヒーロー志望故か彼女のプライドがそうさせるのか、それを口に出すことはないけれども、付き合いの長い俺にはわかるしきっとミリオもわかっている。強く見える彼女は存外脆い。だから常々、ミリオにも無理をしないようにと言い含めてはいるのだけれども、やはり人の意志というものはそうそう変えられるものではないらしかった。
 けれども、俺は貴女を置いていったりはしない。彼女を遺して死んでなるものか。

「――る、か……」
「……た、環くん?」

 奥底に眠っていた意識が彼女の声に呼応して声帯を震わせる。呼吸器のせいで聞き取りづらかったのだろう、ベッドに手をついて耳を峙てているらしく、ギシリとスプリングの軋む音が存外近くで聞こえたものだから、彼女の姿が見たいと逸る気持ちに、ぐっと力を込めて目を開く。

「―――……、ぁ……」
「……っ!」

 白い病室内で拡散された、久方の光が目に痛かった。さんの息を呑む音が聞こえて、そちらの方向に目を遣ると潤んだ瞳を携えたさんと目が合った。水の膜がどんどん張っていくのがよく分かる、緑色の光彩が陽炎のようにゆらりと揺れて、目尻の輪郭が滲んでほどけて、ついにはぼろりと零れ落ちた。

「……さん、」
「……環くん、ほんとうに無茶するよね」

 雫のこぼれた目尻を中指で拭い、さんが少し目を細める。それでなんとか笑っているつもりらしかった。心臓の下のあたりがぎゅっと縮こまる感覚がする。

「……心配、したんですけど」
「……すまない」

 わざとらしい敬語にはぎっしりと皮肉が隠っている。反省しろ、ということだろうか。いや、彼女ならば、もっと自分を大事にしろ、と言うだろう。恐らくミリオも同様に叱責を喰らったに違いない。
 残される側の恐怖も残す側の恐怖も、彼女は知っていてそれを畏れている。例え不可抗力であっても、もしも許されるのであればそのどちらにもなりたくはないと思うのは我が儘だろうか。
 差し当たって吐き出した謝辞に返事は来なかった。無言で手を取られる。いつもよりも明確に幾分か強めの力を込めて握られた。目は合わないけれども、触れたてのひらから僅かな震えが伝わってくるから、きっと、泣きそうなのを我慢している。

「……、すまない」
「いいよ、もう。別に、怒ってるわけじゃないし、生きて帰ってこれたんだから」

 くしゃりと苦笑するその姿に何故か心底安堵してしまって、心のなかでこっそりと詫びた。
 恐らくこれからもさんを悲しませてしまうことは数えきれない程経験するだろう、それは俺と同様にヒーロー志望である彼女も変わらない筈なのだけれども、彼女は自分を棚に上げる節があるからきっと俺が彼女のストッパーにならないといけない。そうして一緒でいられれば大抵の問題は些末なことで、きっとふたりでならば乗り越えられる。漠然とでも、そう確信している。

(……それに、)

 それに、もう、この手を離してやることなどできそうにない。