蛇口のレバーをきゅっと上げたら、音を立てて流れていた水がぴたりと止まる。あ、と思うと同時に、背中にやわらかいぬくもりを感じた。真っ暗闇のなか、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。身体に回された腕にそっと手をかければ、確かめるようにわたしの手のひらをその手がきゅっと握った。
「……転弧?」
静かな空間には、吐息すら響く。水を流しているときは足音も聞こえなかったのに。身長はあまり変わらない転弧が、安心したようにこてん、と額をわたしの頭にくっつけた。
「どこ行ったのかと思った」
小さく転弧の声が漏れた。やっとのことで吐き出したようなその声は、今にも暗い世界の中に消えて行ってしまいそうだった。
「起きたら倫子ちゃん、ベッドにいないし、おれ慌てて」
安心させるように転弧の腕を撫でて、わずかに振り返る。転弧はわたしから少しだけ顔を離した。長く重たい前髪の隙間から、泣きそうな転弧の綺麗な目が見えた。
ごめん、ごめんね。転弧を不安にさせちゃってごめん。
「ごめん、喉乾いちゃって」
「どこも行かないで」
窓からわずかに覗く月明かりがわたしたちの足元を照らしている。無防備にフローリングにはりついた素足。身長はほとんど変わらないのに、転弧は足首ががっしりしていて、足のサイズもわたしより大きい。ああ、転弧は男の子で、わたしは女の子なんだ。
「おれに黙って、どこも。倫子ちゃん、勝手に行かないでよ」
大事だなあ。ぎゅってしたいなあ。どうしてこんなに愛しいんだろう。数時間前までつながっていたのに、少しの間すら離れることすら怖くて、でも、そんなふうな身体になってしまっていることこそが怖くて。こんなにも好きでどうしたらいいのかわからない。でもたぶんそれは、転弧も一緒なんだと思う。
「ごめん、ごめんね」
「ん、倫子ちゃん、ぎゅってして」
腕の力が緩んで、わたしは転弧から解放される。身体ごと振り返れば転弧が力なく腕をだらりと広げていた。わずかに顔の片方が青白く照らされているけれど、その表情はよく見えない。わたしは彼の腕のなかになだれ込むように飛びつく。ふわりとお線香のにおいがした。そういう体質なのか分からないけれど転弧の身体はどれだけ食べても細身のままで、やわらかさとは無縁の感触だ。
耳を澄ませば外は雨が降っているみたいだけれど、いまのわたしたちに、そんなことはたぶん、どうでもよかった。
「ベッド戻ろう」
「うん」
「ぎゅっとして寝ようね」
「転弧がぎゅっとして」
「やだ、倫子ちゃんがぎゅってするんだよ」
そう言って転弧がやっと少しだけ笑った。口角が上がったのが、照らされた光でやっとわかる。わたしは両手でそっと転弧の頬を包み込んだ。すっかり冷えた頬を温め直すように優しく撫でて、彼の目をじっと見つめた。
ねえ、転弧、ここにいるよ。ちゃんといる、ちゃんといるから、だから転弧も、わたしのこと見落とさないで。ちゃんとわたしのこと、ずっと見てて。