わたしの会社と同じビルに入っている別の会社に勤めている人。ロビーで会うと、必ず挨拶をしてくれる人。いつも個性的な柄のシャツを着ている人。わたしの持っている心操さんに関する情報はそれくらいだ。名前だって、いつも首から下げている社員証で知った。
心操さんは4階、わたしは8階を押して、いつも各自の職場へ向かう。たった数十秒、言葉を交わしたのはほんの数回で、暑いですね、だとか、雨すごいですね、だとか、そんな退屈なものばかりだ。だからいつもは誰もいない屋上の隅っこに簡易的に作られた喫煙所に心操さんを見つけたとき、何を話したらいいのか分からなかった。
「あ、8階の、」
「あ……お疲れ様です、」
「あれ?たばこ吸う人だっけ?」
「……いえ、いつも誰もいないから、気分転換に」
「ああ、そっか。じゃあ邪魔だね、俺」
「そんなことないです、ぜんぜん」
「じゃあもうちょっとだけ」
まだ長いたばこの端をとんとんと叩いて灰を落とす。所々さびた、いびつな塔のような灰皿は、もう誰も掃除や片付けをしていないのだろう。ロビーの隅にガラス張りの綺麗な喫煙所ができてから、ここを使う人はほとんどいない。心操さんがそこを使っていたのを見たことがあるから、わざわざここに来る理由も特に見当たらなかった。
わたしは、たばこを収める骨ばった指がやけに男性らしいことだとか、今日も変な、もとい個性的な柄のシャツをさらっと着こなしていて、内勤者もフォーマルな制服を着なければいけないわたしの会社とは大違いだな、なんてことを考える。
「ここ、いつもいんの」
「あ、はい。お昼休みはだいたい」
「へえ、いいとこ見つけたね」
「心操さんは、なんでここ、」
「……あれ、名前言ったっけ俺」
心操さんの表情が少しだけ崩れて、わたしは、しまった、と目を丸くした。まだ心操さんのことをあんまり知らないせいで、いろんな声色で「ストーカーかよ、きもちわるい」と言う心操さんが頭に浮かんでは消えていく。勝手に慌て出すわたしを、心操さんはきょとんと見つめていて、わたしは、なにか言わなくてはいけない、と自分の首から下がる社員証をぎゅっと握りしめた。
「あ……あの、いつもエレベーターで、よく一緒になるから、社員証、見てて……すみません」
「あ、ごめん、全然怒ってるとかじゃなかった」
「すみません……」
「怒ってるように見えた?俺」
否定しようと顔を上げると、心操さんはわたしが想像していた数倍、穏やかで優しい顔をしていた。こんな顔で笑うのだと、またひとつ、知ってることが増える。たばこを持っている手と反対の手がするする伸びてきて、ごめんごめん、とわたしの頭を撫ぜた。大きくて、温かい感触に、わたしは思わず自分の手を重ねると、眉毛を少しだけ下げて、困ったように笑う心操さんと目が合う。
「あ、ごめん、嫌だった?」
「……じゃなくて、」
「ん?」
「もうちょっとこうしててもいいですか、」
「……うん、いいよ」
少し驚いた表情を浮かべて、でもすぐに満足そうな顔をする。吸いかけのたばこを極力わたしから遠ざけて、少しだけ見えたそれは今にも落ちそうなくらい灰が長くなっていた。ここへ来てまだ数分しか経っていないのに、もう何時間も、何日も一緒にいたみたいな、不思議な空気感がわたしたちを包みこむ。
なにか伝えたいのかもしれないし、曖昧なままにしたいのかもしれない。頭から伝わる体温が、じくじくとわたしの身体全体を溶かしていく。そんなわたしの意識を戻すように、あのさ、と心操さんが声をあげた。
「さっき、なんで下の喫煙所使わないんですかって訊こうとしたでしょ」
「はい、」
「たまに8階じゃなくて10階押してんの、見てたから」
「え、」
「いつもどこ行ってんのかなって気になってた」
「……なるほど、」
俺気持ち悪い?とわたしの顔を心操さんが覗き込む。そんなこと思っているわけがないと知ってる癖に、わたしが小さく首を横に振ると、よかった、なんて言って、本当に嬉しそうに目を細めるのだ。きっともう、ここ数年でわたしたちがこのビルのロビーで、エレベーターで、すれ違った時間を、言葉を交わした回数を、更新してしまっただろう。
「だから俺も同じ」
「なにがですか、」
「ずっと見てたってこと」
「……」
「もっといろいろ教えてよ」
下の名前なんて読むの、とわたしの社員証を手にとって尋ねる。わたしが読み方を教えると、心操さんは何度も何度も、確かめるようにわたしの名前を呼んだ。その度にわたしはちゃんと返事をしたし、心操さんはその返事に微笑んだ。
灰がぽとりとコンクリートの床に落ちて消える。心操さんはほとんど吸うことなく短くなってしまったたばこを無理やり灰皿に押し付けて、その様子をぽかんと見ていたわたしの唇を指の腹でなぞるように触れた。
「集さん、」
「は、い、」
「キスしてもいい」
「……そんなこと訊かないでください」
「たばこくさいかもしれないから、一応確認」
「べつにたばこ嫌いじゃないですよ、」
「それ、してもいいってこと」
頭の先に置いてあった手が首許に滑り込んで、わたしが首を縦に振るより前に、酷く優しいキスが落ちてくる。
いつ、どうしてこうなったのかは分からない。自分の気持ちすら、いつ動いたのか、見当もつかない。歳も、住んでいる場所も、心操さんがどんなものを愛して、どんなことを面倒だと思うのかも、知らない。
けれど好きになる理由なんて、この温もりだけで十分だ。たばこの苦味を遠い意識の中に感じながら、わたしはそんなことを思った。