泡沫のかたち



 心操に告白したのは二週間前。なにが悪かったのか、と考えるほど無意味なことはない。そもそも良かったことがなにひとつないのだから、つまるところ最悪だった。タイミングも自分の状況も、そして告白にしては随分と素っ気ない言葉で伝えたことも。
 それなのに今日もまた携帯電話は震える。『心操人使』の文字を着信として浮かべて。

「……もしもし」
『なに、寝てた?』
「そこまで怠惰な生活してないよ」
『あっそ。お前夕飯まだだろ』

 いつものとこ、来れるか?ノイズ交じりの声に心臓が跳ねる。必死に平常心を保ちながらは何とか返事を返した。

 家が近いことを知ったのは一年ほど前。友人に誘われて参加した飲み会に同席して、同じ電車に乗り合わせた。きっかけはそんな、至極些細なものだった。
 どんな話題を振っても彼なりの皮肉とユーモアを混ぜた切り返しはにとって新鮮で、語彙も豊富な心操との会話は純粋に楽しかった。お互い一人暮らしだということも手伝って、今では週に何度か二人きりで飲みに行くことも少なくない。

 だからあの日も。バイトでくたくたになって夕飯のメニューを考える余裕がなくて、当たり前のようにアドレス帳から心操の名前を引っ張った。誘ったのはからで、その誘い方も先程の会話とほとんど差異はない。いつもと変わらない、飲み屋も行きつけの場所。生ビールを頼み、最初のつまみは決まって枝豆とキムチ。なにひとつ、変わらないはずだった。

「ああ、わたし心操のこと嫌いじゃないんだなあ、って」

 だからどういった会話の流れで、自分がそう口にしたのか定かではない。ただ疲れきった身体に染みたアルコールで、いつも以上に酔いが回っていた。
 口走った言葉にも特に意識を置いていなかった。心操の箸を持つ手が止まり、自分を見つめてくる視線を受けるまでは。

「……それって、どういう意味?」
「どうって、好きって意味に決まってんじゃん」

 ぽろり、と。笑って言えたことが、今となっては信じられない。訪れた沈黙に対しても最初何も感じなかったぐらい無神経だったのだと、今更後悔したところで既に遅い。なんのリアクションもない心操を不思議に思い視線を移せば、考え込むように口元に手のひらを当てた姿があった。
 そして、徐々に自分の口から発せられた言葉の端々を、脳が理解する。

「あ……あの、人として、みたいな」

 取って付け加えた言い訳の苦しさも、ぐらりと揺れる後頭部も、飲みすぎたビールのせいだけではない。視界が眩む。そして、これこそ最悪の極みだ。自棄になってジョッキを呷った直後、急激な吐き気に襲われ、それから先の記憶が綺麗さっぱり飛んでいった。表現するならば、そう、シャボン玉が風に吹かれて舞い上がるぐらい、軽々と。

 翌日、目覚めたのは自分のベッドの上だった。煙草くささを纏ったまま布団に入ってしまったことを気にする余裕は二日酔いの頭痛に全て掻き消されていた。

「遅えよ」
「先に飲んでおいて、それか」

 騒がしい居酒屋の、カウンターの少し奥。個室と呼ぶには開放的過ぎる四人がけのテーブルに、生ビールのジョッキとお通しがふたつずつ並んでいた。僅かに泡が萎んでいるところを見てそう言えば、「お前が来てすぐ飲めるようにしておいてやったんだけど」と上から目線で言われる。上着を脱ぎながらなおざりに「ありがとう」とジョッキを手にし、なにに対するものでもない乾杯を小さく交わした。
 喉を通る炭酸が少し痛い。ぴりり、と感じるこの焦燥感の理由を無視できるわけがない。小さく息を吐いたのと、威勢のいい声を上げた店員が枝豆とキムチを持ってきたのは同時だった。

「あ、あとさっき焼き鳥も何本か頼んどいた」
「どんだけお腹空いてたの」
「どうせだって腹減ってたんだろ。あとー……だし巻きもいっとくか」

 慣れた動作で店員を引き止め、だし巻き玉子以外にも何点か注文をする。メニューを指差しつつ、最後に「お願いします」と軽く頭を下げた。
 そういう仕草が、その声が、好きなのだ、と改めて思ったのは図らずも告白してしまった後だった。気まずいこちらの心情を他所に、何事もなかったかのように食事に誘う心操の神経を疑いつつも、断る理由もなくあれから何度もこうして飲みに来ている。
 心操の一挙手一投足に目を奪われる度、悔しさと恥ずかしさがない交ぜになってはを襲う。そうしてそのむず痒さを回避する方法が、ひたすらジョッキを傾け続ける、ということしか見つからないのが心底情けなかった。

「なんかお前最近よく飲むのな。なんか悩んでんの?」
「……心操こそ、最近なに、一人で飲んだりすんのやめたわけ」

 誰のせいだと思っている、という悪態を言葉の裏側に込めて睨めば片目を眇めてやり過ごされる。
 なにを言っても本心に迫れない心操のことをもっと知りたい、と。好奇心にも似た興味から始まったのだと思う。それが口から感情が零れだすほどに好きになっていた。冷静に考えるほど浮き彫りになる自分の思考回路の短絡さに呆れながら、はテーブルに並んだつくねに手を伸ばした。

「最初は絶対つくね」
「うん?」
「それから俺が食おうとする何かを一口欲しがる」
「……うん?」
「だし巻き玉子は調子に乗ると二皿頼む」
「……心操?」
「お前の癖。知らない間に全部覚えてた」

 目尻を、そうしてくしゃりとして笑う時は機嫌がいいこと。声の調子がワントーン上がると、本人は否定するが少し酔い始めていること。飲むペースはあまり速くないから、時々腕を組んで背もたれにもたれて休むこと。
自身も、覚えていた。心操の言う知らない間に、ではなく目で追い続けるうちにひとつ、またひとつと発見していく喜びを噛み締めながら。

(アホ……だな、わたしも大概)

 好きだと言って、こうして普通に接してくる。それが心操の結論なのだろう、野暮なことを口にすることなく言外に「これからも飲み友達としてよろしく」と態度で示してきている。そんな察しのいい人に思われていたことがおかしくて、小さく苦笑しながら僅かな可能性も崩れ去ったことを知った。
 空いた皿を下げにきた若い店員に「生、お願いします」と頼む。一杯目を飲み干しただけにしてはくらくらする頭を押さえ込むようにして流れてきた前髪を耳にかけた。そしてあっという間に届いた二杯目のビールを勢いよく胃に注ぐ。これでいいのだと自分を納得させるために。

「どんだけ一緒に飲んでるんだ、って話だよね」
「ま、俺としてはペース分かってる相手のほうがいいけどね。いろいろ」
「……そーねー」

 思えば、心操のことを好きだからどうなりたい、ということは全く考えていなかった。こうして飲んで、くだらない話をして、また明日からなんとなく毎日の生活を繰り返していく、それで十分だ。

(心操と手繋いでデートとか、笑える)

 告白、という二文字は言葉にすれば甘い響きを持つものに姿を変える。今の二人の関係に当てはめようとした二週間前の自分は相当酔っていたのだろう、とそれ以上考えることを封じ込めようとは大げさにジョッキを呷った。

「でも時々、なに考えてんのか分からなくなる」
「心操には言われたくないなー、それ」
「……教えてくんねえかな」

 胃の奥に妙な熱が居座る。水滴が指先に触れ、そこだけが驚くほどに冷たくなっている。無理矢理作った笑顔は、見上げてくる心操の視線に脆くも崩れた。
 決して大きな声ではなかった。BGMは懐かしい曲を流し続け、混み始めた店内には早足の店員が慌しく行き来する。そして先ほどから揺さぶられ続けるの心臓は痛いぐらいに胸を叩いていた。

「なにいきなり。っていうか、グラス空いてるよ。なんか頼みなよ」
「お前は……は知らないだろうけど、これでも結構真剣に考えてた」

 逃げられない、と直感的に思った。妙な間を埋めるためにそれまで組んでいた腕を解き、心操が焼き鳥を一口食べる。咀嚼しながら小さく鼻を啜り、そしてから視線を外すことはなくなった。覚悟を決めたような眼差しを感じ取り、もそれ以上茶化すような口調を止める。それと同じタイミングで「だし巻き玉子お待たせしましたー」と、忙しさからか愛想の欠片もない店員がどん、と皿を置いた。

「正直めんどくせえと思った。お前がああいうこと言わなきゃ、こうやって飲んだり喋ったり。これからも普通にできたんじゃねえか、とかさ」
「……うん」
「俺らはあれから、なんか変わったのか、とか」
「努力はしてたよ」

 いつもと変わらない淡々とした口調が今はつらい。右目を細める心操に、「気づいてたでしょ?」と少しだけは笑う。改めて突きつけられる事実に笑わないと、泣いてしまいそうだった。情けない顔になっているだろうと頭の片隅で考えながら、置き去りにされていた枝豆を摘む。

「倒れるぐらい飲んでて、最後に人として、って付け加えて……でもお前がこういうことで冗談言わないの分かってるから。だから、分からなくなった」
「嘘、分かってるくせに、」
「分かんねえよ」

 遮る言葉の鋭さが、胸の奥を突く。思わずぐっと押し黙れば、心操は苛立たしげに前髪を撫で付けため息を吐いた。

「言えよ、もう一回」

 なぜ言わせたいのか、心操はどうしたいのか、なにも分からないもどかしさに混乱する頭は、それでも尚その声を心地のよいものとして捉えていた。言われるがまま、震える声でもう一度、告白をした。好きだ、と。
 沈黙が突き刺さる。じ、っと変わらず見つめてくる心操の視線に耐えかねて顔を逸らせば、ふいにふ、と吐息が漏れるのを聞いた。

「俺もお前のこと嫌いじゃ……いや、」

 少しトーンを落とした声色が聞き慣れた音へと変わる。僅かに顔を俯け口の端を持ち上げながら、目尻にくしゃりと皺を寄せる。

「好きだよ」

 そしていたずらを仕掛けた子どものように笑った。言葉よりもその笑顔が直接胸に響き、照れる、というよりはもっと衝動的には心操から視線を外した。誤魔化すために飲み続けたビールのジョッキはもうとっくの前から空だ。

「だし巻きもう一皿いっとく?」
「……ちょっとわたしのことバカにしてるでしょ」
「いや、別に」
「嘘つけ」
「ちょっとじゃない」
「……なんで好きになったんだろう、こんなやつ」
「俺も思った。でも、」

 これが恋なんだな。
 独り言のように呟いた心操に、は堪らず「焼酎お湯割で……」と額をテーブルに押し付けた。