あとちょっと、あとちょっと、というところで、いつも邪魔が入る。
「これ、返却で」
「……はい、クラスと名前は?」
「二年C組、心操人使」
突然上から降ってきた声に、読みかけの本へ栞を挟んで閉じる。目の前の引き出しを開いて心操、という名を探す。顔を確認せずとも、もはや聞き慣れた声だ。わたしが当番である金曜日に、毎週というわけではないけれどもかなりの頻度で耳にする名前。カードを取り出して、返却の欄に判子を押して、本に貼り付けられたバーコードをスキャンすれば、返却完了。先程片付けてしまったために空になっていた返却ボックスにそれを仕舞いこむ。どうも、という声を合図に初めて顔を上げれば、彼はもうカウンターを離れて本棚とにらめっこを始めていた。
去年も図書委員だったわたしは、心操人使という名前を、彼が一年生の頃からよく耳にしていた。最初は他の図書室の常連の生徒と何も変わらないただの、本が好きな一年生という印象しかなかった。あとは去年の体育祭で、ヒーロー科独壇場の中トーナメントまで進んだ唯一の普通科の生徒、ということだろうか。友人曰く、彼の個性は洗脳というらしい。ヴィラン制圧に長けた強い個性だ、とわたしは思う。わたしの個性はほんのすこし集中力が上がるだけのものだから、所属だって経営科だし体育祭で活躍できるようなものではない。
そもそも図書委員に入ったのは、 委員会の仕事をしながらもこの冷暖房完備の中で自分の好きな本をゆっくり読める、というあまり聞こえのいいものではない理由からだった。毎週、特に金曜の放課後に時間を縛られるなんて嫌がる生徒ばかりで、二年連続あっさりと図書委員の枠にわたしは嵌っていた。元来本を読むことは好きなほうだ、この時間は全然苦痛ではない。
「これ、貸し出しで」
「……はい」
委員会の仕事に逐一愛想は求められない。給料を受け取っている本屋の店員とはわけが違う、生徒の顔なんていちいち見ることはしないものだ。男子高校生らしい少し歪んだ文字で新たに小説のタイトルが書き込まれた心操人使の貸し出しカードを受け取った。「期限は一週間です」、ともはやわかりきったことを事務的に呟くと心操人使はそのまま、図書室から出て行く。
いつもなら、そうだった。
「……あと十分で、閉館時間だけど」
「……はい?」
「いいの、それ 片付けなくて」
心操人使が指差すのは、先ほど彼が返却した本だった。いつも聞くのは、「貸し出し」「返却」「2年C組」「心操人使」。最低限の単語だけ。思わず瞬きを繰り返して彼を見つめるしかないわたしを、なにやらおもしろいものでも見るかのように心操人使は口元を緩ませる。
「じゃあまた来週、返しに来ますね。先輩」
心操人使は、ほぼ毎週わたしの当番の日に図書室にやってくる。時間はいつもばらばらで、必ずあと数ページで本を読み終える、というところで「返却で」とか「貸し出しで」なんて言うのだ。いつだって、あとちょっとというところで邪魔をしてくる。そんなこと彼は知ったことではないだろうけれども、ろくに会話もしたことのない彼に対してわたしは僅かながらの不満のようなものを抱いていた。そんな心操人使が、わたしの名前をいつどうやって知ったかなんて、今のわたしに想像がつくはずもないのである。
▽
「うお、」
「……うおって何」
「いやー久々じゃん、インフルだったんだって?災難だねー」
にやにやしながらわたしの隣の席に座るクラスメイトを睨みつける。……本当に災難だった。まさか学校を一週間も休むはめになるなんて。普段授業なんてそんなに集中して聞いてはいないけれども、これはもう本格的についていけない気がした。とりあえずノートは全部彼のを写させてもらおう、ついでに今までの分もこっそりコピーしてしまえ。
「あ、今日さ、図書委員の当番?」
「……そうだけど」
「これ返しといてよー、ついでに」
「なんて図々しい……」
「いいだろそれぐらい」
大体今渡すこともないだろうに、邪魔になってしょうがないじゃないか。そういえば、先週は当番を休んでしまったせいで誰かが代わりを務めてくれたんだろうな、申し訳ないことをしてしまった、先生にも謝らないといけない。彼から受け取った本を眺めながら、先生に頭を下げる自分の姿を想像して少し憂鬱になった。どうせ授業にはついていけそうもない。暇つぶしに、今しがた受け取った本でも読もうと一時間目からずっとそれに没頭してしまった。何度か彼が「授業聞けよ」と催促してきたのだが、聞いてもわかんないもん、の一言で済ませた。
結局、四限目が終わるころにはあと数十ページというところまで読み切ってしまった。これなら昼休みの当番中にでも読み終えられそうだ。病み上がりのせいか、食欲もなかったのでいつもなら購買に向かう足を図書室へと向ける。先生はどうやら担任の方から連絡を受けていたらしく、怒るどころかむしろ体調を心配してくれた。なんとなく居た堪れない気持ちの中、カウンターに座って本を開く。あいつもこんな純愛小説なんて読むんだな、意外だ、しかも結構おもしろかったし。結末はお決まりのハッピーエンドがなんとなく予想されたけれども、飽きることもなく順調にページを捲る指が進む。最後の一ページ、ああ、たった数時間で読み切ってしまうこの最後の瞬間がいつもなんとなく躊躇われる。親指に力を入れて捲ったその瞬間、「これ返却で」と、声が降ってきて思わず体がびくりと反応した。
「あ、……は、はい」
「…………」
慌てて顔を上げれば、また、心操人使。あれ、でも昼休みに来るなんて珍しい、いつもは放課後に来るのに。ああ、また最後の瞬間を邪魔された。心操人使に対する個人的な不満は積もるばかりだ。名前を聞くこともうっかり忘れてしまって、そのままカードを取り出す。見ると、日付は二週間前、心操人使がわたしに生意気に笑って見せた、あの日の日付だった。
「……これ、返却期限を過ぎてる。ちゃんと延長の申請はしてもらわないと、」
「だって、」
「……?」
「……だって、先週、あんたいなかったから」
……は?彼の言葉の意味が理解できず、思わず顔を凝視してしまった。
わたしがいなかったからって、だから、返却しなかったって、なに、それ。なんだ、それ。
「先輩いないなら、図書室来る意味ないから」
合わされた視線に反応するかのように、心操人使の頬が、首が、耳が、赤く染まっていく。じわじわと、わたしまで首から熱が上がっていくような感覚をおぼえた。
ああ、もう。またこいつのせいで、この本も最後まで読み切れそうにない。