自由を手にした僕らはグレー
ビールあるけど、と言うと、車だから、と至極まともな答えが返ってきた。やってきて数分で自分の家みたいにくつろいでいる瀬呂を背にして、パリだかロンドンだかに行った友人がお土産にくれた紅茶を取り出す。夏はだいたい冷えた麦茶を出すようにしているけれど、今日はあいにくの雨で少し肌寒いから、ちょうどよかった。お湯が沸くまでの時間でなんとなくリビングの方を振り返ると、ちょうど手元の携帯から視線を外した瀬呂と目が合う。
「なにしてたの」
「今日?」
「うん」
「DVDみてた」
「映画?」
「ううん。瀬呂の、高1の体育祭の」
「……やめてよ」
「瀬呂がくれたんじゃん」
「そうだけど」
なんか恥ずかしいわ、と伏し目がちに笑って、また視線は携帯の画面に戻る。明日のスケジュールでも確認しているのだろうか、よくわからないけれど。わざわざ車でここまで来た割には、特別用もなさそうである。
「セロファンと付き合ってるの?」これはわたしが生涯言われた言葉ランキングでおそらくトップ10に入るだろう。単純に疑問として投げかけている場合もあれば、「あなたごときが」とかっこで前についてそうなものまで様々だけれど。その度にわたしは眉間に皺を寄せて、ただの幼馴染みですけど、とありがちな答えを返していた。
恋人かどうかなんて、そんなに重要なことだろうか。付き合っていなくても連絡はとるし、たまに飲みにでかけることもあれば、こうして急に家にやってくることもある。キスやセックスはしない。ただそれだけだ。
沸騰したお湯をポットに注ぐと、いかにも高そうな茶葉が踊った。一袋でいくらなのか、とすぐに計算しようとしてしまう貧しい脳が嫌になる。徐々に茶色が濃くなっていくティーポットと二人分のカップをテーブルに置くと、瀬呂がありがとうと口の端を緩めた。
「なんかロンドンだかパリだかローマだかの紅茶」
「全部別の国なんですけど」
「細かいこたぁいいんですよ」
「パッケージ見してみ」
「ん、」
茶葉が入った袋ごと手渡すと、フランス語じゃん、と食い気味で返ってくる。わたしからしたらアルファベットなら全て英語の認識ですけど。そういうところは気にするくせに、わたしが傍に置いた砂時計の砂が落ちきっていないことなど無視して自分のティーカップに紅茶を注いでいるので、細かいんだか雑なんだか謎である。
瀬呂の隣は空いていたけれど、なんとなくその小さなスペースに座るのもはばかられたので、わたしはカーペットに座って紅茶を注いだ。
「……なんで床」
「え、だめだった」
「空いてますけど」
瀬呂がソファの端っこに身を寄せて、無理やりつくったスペースに身体を滑らせる。ひとりで座ることを意識して買ったものだから、ふたりで座ると身体のどこかがぴったりとくっついてしまうのだ。まあ、そんなことを意識する間柄ではないけれど。
「なんか久しぶりじゃない」
「なにが?」
「会うの」
「そうだっけ、」
「うん」
目を合わせないで話すのは瀬呂の癖だ。わたしではなく、その辺に浮かんでいる空気に向かって声を発しているみたいに。
確か最後に会ったのは先月末だった気がするから、わたしとしてはそんなに久しぶりではない。会ったことを忘れているのかもしれないし、一ヶ月は彼にとっては久しぶりなのかもしれない。かと言ってわたしは、それを確認することもしないし、確認する必要はないとも思う。
「最近なんか忙しそうじゃん」
「……んまぁ、ぼちぼち」
「かっこつけんな」
「つけてねーよ」
「髪型も変えちゃってさ」
「別に俺がやったわけじゃないけど」
「まあ似合ってますよ、そこそこ」
「……そこそこって」
いいんじゃない、と、サイドに流された髪に触れる。指先がちょっとだけワックスでベタついたけれど、そんなに不快ではなかった。それまでされるがままだった瀬呂が、珍しくわたしの目を見ながら、あんまいじんなよ、と言って、子どもを咎めるみたいにわたしの手を掴む。
「なあ、」
「んー、なに?」
「……やっぱなんでもねーわ」
「なにそれ」
瀬呂が、ばつの悪い顔で視線を泳がせたので、わたしもどこを見たらいいのかわからなくなって、空になったティーカップを意味もなく見つめた。先ほど掴まれた手はそのまま、狭いソファでふたりの間におさまっている。
わたしも、瀬呂も、何か伝えるべき言葉を探していて、でもそれは簡単には見つからなかった。恋人かどうかなんて重要ではない、と本気で思っていた、この時までは。
「俺のこと、どう思ってる」
やけに消極的な、弱々しい口調で紡がれた言葉は、ゆるゆると部屋の空気を彷徨ってからわたしの耳まで届く。こちらに選択肢を投げる、ずるい訊き方だったけれど、わたしの心を揺らすには十分すぎる程に十分だった。わたしの右手を掴む力が強くなって、じわりと滲む汗にワックスが溶けていく。ポットの中の紅茶ももう冷めてしまったかもしれないくらいには、時間が経っていたように思えた。
「どうって、瀬呂は瀬呂だよ」
「……そういうことじゃねぇよ、」
ぎしり、と音を立てて、先ほどまでわたしの手を掴んでいた左手がソファに沈んだ。わたしを見下ろす瀬呂の表情は、眉間によった皺のせいか、随分苦しそうに見える。怒っているのとは違う、何かを我慢しているような、どうにもならない現実を目の当たりにしているような、そんな顔だった。
「……ごめん、言い訳は後でさせて」
掠れた声が、静かな部屋の中に反響して、気づけば唇が触れていた。もう元には戻れないだろう、と考えて、けれどわたしはいつからか、こうなることを望んでいたのかもしれないと思った。
瀬呂の手がわたしの頬をワレモノに触れるみたいに酷く優しく触れるから、わたしは全てを受け入れるように瞼をそっと閉じた。