アバンチュール・レクイエム



 人がひとり、死んでいるのかと思った。
 それくらいの、静けさだった。

 今日は近頃ひどく忙しかったせいもあって、かなり久々の待ち望んだ早めの帰宅。時計を見ると、なかなか顔を合わせることも出来なかった恋人と、今から充分ゆっくり過ごせそうな時間だ。
 足取りは軽やか、そわそわと浮かれ具合でドアまで駆けて鍵を開ければそこには、

「……えっ、……!?」

 部屋中に、やわらかくミサ音楽が響き渡っている。神秘的で荘厳なその音が一気に全身に降りかかってきて、僕はクラリと軽い目眩を感じた。自分の家なのに雰囲気があまりにも違うのだから、まるでここは異世界みたいだ。
 リビングの中心に置かれたオフホワイトのクッションの上で、ルームウェア姿のが胎児のような形に丸まって横たわっていた。硬質な照明のひかりを反射して彼の銀糸のような髪と白い肌が薄ぼんやりと発光している。その暖かいひかりの印象はまるでみどり児の様だ。
 息をしているのか、と半ばおそろしい気持ちになって周り込んで顔を覗き込めば、すいよすいよとなんとも朗らかな顔で眠りこけていた。よかった、いや、当たり前なんだけど。

「……んん、ぁ、いずく?おかえりぃ」
「……ただいま、なさい」
「あーごはんー……、どぉするう」
「買ってきたよ、お肉」
「にくぅ?……あはっ、やったあ、肉だぁ」
「あーもー、寝ぼけてるだろ」
「……わからない、」
「目、開いてないけど?」
「……うー、ん、ゆめかなぁ、ほんとのいずく?や、違うよなぁ、いずく忙しいし、なぁ」

 がめいっぱいに両腕を伸ばして、屈んでいた僕の頬へぺとりと手のひらを置いた。半分寝ているはずのその指がひどく冷たくてとてもびっくりする。ゆめなの?、って悲しいことを言いながらも、満足そうに微笑みながらは何度も僕の頬をなぞった。

 彼は仕事のプロだ。僕のヒーロー活動が増えて忙しければそれを受け入れて、出久のためにおれは全面的な協力体制を取るよ、と言ってくれる。僕はその優しさに少し、甘えすぎていたのかもしれない。
ひとつのことに集中しがちな僕を笑いながら支えてくれていたけど、プロヒーローのだって僕に負けず劣らず忙しかったはずだ。だけどここ数日の僕が多忙を極めた間の彼は、疲れた素振りもマイナスな感情も、いつもと違ってあまり見せてはこなかった。ポロリ、とふざけるように口にした僕への罵りに似た軽口は、半ば本音だったのかもしれない。
 自分だってぎゅうぎゅうの状態で、更に僕を支えて。彼は何を思っていたのだろう。

(わかってるのに、なんもできない自分が嫌だ。、夢じゃないよ、ほんとにごめんね)

 いつぶりかにまじまじと間近で見るは幾つか幼くなったように見えた。ここのところますます赤子みたいな彼の眼を見ていたら、なんだか突然涙がこぼれそうになったから情けなくてそっとこちらを見つめる彼に目隠しする。
 しばらくしてから僕の手のひらの目隠しの下で、の両目からはらはらと涙が流れたのがわかった。は声も上げずに泣いていた。
 なんだかこの光景は過去にもあった気がしてきたから、これがデジャヴというやつだろうか。
何度もこんなことを繰り返して、僕は何を得ているのだろう。を傷つけることによって何かを得たいというのだろうか。
 何度、秘かに彼の感情をじわじわと殺せば僕は気が済むのだろう。いつになったらこんな一連の行為は無駄なのだ、と気づけるのだろう。

 すべてを喪ったあとには何もかもが手遅れなのだと、僕はもう十分にわかっているはずなのに。