アフターミレニアム



 待ちわびていたクラクションが鳴った。じわじわと寒気が上ってきて、何度目かの身震いをする。デニムと薄手のジャケット越しに感じるコンクリートは冷え切っている。ハァ、と吐いた息が地下駐車場の薄暗い蛍光灯の中で白くみえてすぐに消えた。カーウインドウから半身を乗り出すの白い顔が、車止めに座り込んだ俺を見てゆがんだ。

「お前なにしてんの」
ちゃんおかえりい」
「おかえりじゃねえわお前、上鳴、なにしてんのって」
「うん、ちょっとなあ、あれ、込み入った話ぃ?なんだよなあ」

 つとめてやわらかく笑う。の唇がめんどくっさ、と動いた。

「とりあえずそこ退け」

 めんどくっさ、と言いながら最後の最後まで見捨てられない。言葉と行動がうらはら。の、そういう優しくてどうしようもないくらい甘いところが好きだった。自宅へ通され俺の前に置かれたマグカップのその温度で、彼はあのころと変わらず確かに俺をかわいがってくれている、と思う。
 俺がのことを好きで、もきっと、たぶん、恐らく俺のことが好きで、同じ仕事の帰りにスーパーでお惣菜と缶のお酒を買ってこの部屋にふたりで帰ってきたり、が俺の食べこぼしたポテトチップスのかけらを踏んでひどく怒ったり、彼がいない部屋に合鍵で上がりこんだ俺が黄緑色のル・クルーゼで煮込み料理を作ったりしていたのはほんの数年前のことだった。付き合っていた、のだと思う。俺ももそんなことを口にしたことは一度もなかったけれども、今まで女性としていたようなことをとしていたあの時間は、きっと、たぶん、恐らく。
 はじまりも終わりもわからないままだった。ゆるやかに加速して同じようなペースで減速して、そしてなにもなかったみたいに元に戻っていった。俺のキーリングからの家の鍵が消えて、彼の家の床にはスナック菓子の食べこぼしなどひとつもなくなって、キッチンは全く自炊をしない人間のそれに戻って、そうやって終わった。

「で、それで」

 俺の座るダイニングテーブルの斜め向かいに、は座った。ひとりで彼の部屋にやってきたのはそれこそ、そういう関係でいたころ以来だった。はあのころも決まって俺の斜め前に座っていた。俺が両手でマグカップを包んだまま聞こえないふりをしていると、「それで、なに」すこし語気を強めてまた言う。

にな、俺のこと拾ってほしいわけよ」
「なに言ってんだお前、拾ってやったべ今さっき」
「ちがくて」
「なにが」
「俺んちエアコン壊れてな」

 何食わぬ顔で頬杖をついてみると、俺の頬は冬の外気で冷え切ったままだった。

「だからぁ、拾って」
「はあ?」
「修理来るまで泊めて、ください」

 はなにか言いたげに口を開き、じっとを見ていた俺としばらく見つめ合った。何度か口をぱくぱくとさせてふいと目を逸らしてしまう。ちゃあん、とくだんの甘えた声色を作る。は眉間のしわを深く深くして、それからまた俺を見た。

「なあ、料理するし」
「いらねえよ、買うし」
「洗濯もするし」
「そんくらいできるし」
「お泊まりセット持参だし」
「知らねえし」
ちゃんしー」
「し、要らんし」
「またしぃ、言ってるし」
「うっちゃしな前ほんとに、……切島か爆豪んとこ行きゃいいだろ、昔みたいにすりゃいいのに、なんでわざわざ俺んとこ来んの」
「だからさあ、切島とかバクゴーとは違うんだよなあ」

 の眉がくっつきそうになる。わからないって顔。なんでわからんのかなあ。うん、そこはなあ、違うんだよなあ。俺にとっての切島とかバクゴーとは違う。全然違う。はどうしてかそれをわかってくれない。あのころだってそうで、今だってそうだ。俺にとってさんにんは特別だけど、次元の違う特別なんだってことを、は一度だって信じてくれたことがない。俺がの家でのためにビーフシチューを煮込んだ意味を、一度だってわかろうとしてくれたことがない。
 あの生活に何か名前をつけることは俺の勝手な思い違いに基づいた行動かもしれなくて、でも実際のところ間違いなのかどうなのか、確認する勇気なんてどこにもなくて、ゆるやかに減速して戻っていった関係の上にずっと暮らしている。静まり返ったひとりの部屋でエアコンにすら無視を決め込まれたとき、すぐに浮かんだのはの家のことで、その意味を俺はもうずっとわかっている。

「泊めてください、し」

 斜め向かいのをじっと見つめた。両手で包みこんだマグカップは指先にじわじわと暖かさを伝えていて、そこから這い上がってくる熱で顔まで熱い。意識して眉を下げる、するとは耐え切れないとでもいうように噴き出して笑った。「しぃ要らんし!もうお前それ、顔、たぬきだべや」そう言うと思った。

「捨てだぬき拾って?」
「駐車場で轢かれそうになった捨てだぬき?」
「家事のできるたぬきだぜ」
「器用なたぬきだなや」

 はひとしきり笑うと、ちょっと待ってろ、と言って席を立った。静かで穏やかで、優しい声だった。彼の消えたドアの向こうが寝室であるのを俺はよく知っている。がそこに、何を取りに行ったのかも。