入口付近に座っていた数人がきゃあっと歓声をあげて、場の空気が一気に明るくなった。わたしは彼が座ったあたりから一番遠い端っこの席で、ハイボールをちびちび煽りながら、華やいだ空間をぼんやりと眺めている。すっかり人気者になって、と周りの人は言うけれど、わたしからしてみたら昔から眩しくて、憧れで、だからこそ、近すぎる距離にいるには耐えられなかった人、だった。
まだ若すぎた、なんてありふれた言い訳をするつもりもない。ただあの日々を、思い出として片付けるには、もう少し時間が必要だと、そんな風に思っていた。好きだよ、と照れ臭そうに笑った彼のきらきらとした笑顔を、わたしはまだ鮮明に思い出せるのだから。
生ぬるい夜風が、お酒で少しだけ熱くなった頬を撫ぜた。少し離れたところで「二次会行く人ー」と既に酔っ払い気味の幹事が声をあげている。誰々が帰るから見送れだの、という一連の流れが面倒で、わたしは気付かれないように輪から抜けるつもりだった。けれどそれは、思ってもみなかった方向から伸びてきた腕に阻まれてしまった。振り返ると、星のように目映く煌めく金色の瞳と目が合う。
「……よお」
「わ、びっくりした」
「あー、ごめん急に」
パッと腕を掴む力が弱くなって、行き場を失った彼の右手はそのまま宙に浮かんだ。少し不器用なところは、相変わらず変わっていない。ずっと会いたくて、でももう二度と、会いたくなかったその人は、眉をひそめて、不機嫌そうな顔でこちらをみている。
「帰んの、」
「あ、うん。そのつもり」
「珠世、二次会来ねえの」
「でんきちゃん、行くの」
「……その呼び方、なんかはずい」
「あ、ごめん」
「いや、いいんだけど」
照れ臭そうに首元を掻いてから、ちょっと懐かしかっただけ、と笑う。久しぶりに声に出したその名前が、頭の中でぐるぐる渦を巻いた。もう二度と、呼ぶことはないと思っていたのに、神様は意地悪だ。
「明日早いし、今日は行かないかな」
「……そっか」
「最近忙しくしてるみたいじゃないですか」
「ふは、まあそれなりに」
「否定しないんだー」
「まあ、ありがたいことですよ」
「頑張ってんだね」
「それはそっちも一緒」
二次会組が移動し始めて、数人が、上鳴ー、と大きな声をあげる。「行かなくていいの」「置いてかれちゃうよ」というわたしの言葉に、彼はどこかうわの空で、うん、と答えるだけだった。ようやく、「あとからいくわ」と向こう側に手を挙げた彼が、まっすぐわたしの目を見る。優しくて、でも鋭くて、嘘がない目。
「あのさ、」
「ん?」
「……勢い、とか思ってほしくないんだけど、」
「うん」
「もう一回とかって、ないっすか、」
「……もう一回?」
「もう一回、恋人に戻るとか、って、」
「待って、でんきちゃん酔ってる、」
「酔ってねえよ」
「だって」
「勢いとかじゃねーから。ずっと思ってた」
冗談で言っているわけじゃないことくらい、わたしにも分かる。昔から、嘘が苦手で、嘘がつけない人だった。本当は、こうなることをどこかでずっと期待していたかもしれない自分が嫌いだ。「ちょっと考える」と、逃げるような言葉がすらすら出てきてしまう自分が嫌いだ。本当は、もうあの時からずっと考えているくせに。勝手に彼と自分を比べて、他人と自分を比べて、落ち込んで、追い込んで。負担になるくらいなら、もう会わない。そう思っていたはずだった。
「だよな」と、ちょっとだけ困ったように眉を下げて笑う。その顔にはどこか見覚えがあって、ダムが決壊したみたいに、もう思い出すことはないと思っていた場面が、次々に頭の中を埋め尽くしていく。教室の机に突っ伏している彼だとか、必死に追いかけた学生服姿の後ろ姿だとか。ぼうっと立ち尽くすわたしに、「これ、今の番号だから」とメモを押し付けて、彼は去っていく。もう会わない、電話もしない、思い出さない。頭ではそう思っていたのに、二次会の波に混ざろうとする背中に、わたしは「待って」と言った。そんなつもりはなかったけれど、確かにその声は、あの頃より随分広くなった背中に届いていて、スローモーションのように振り向いた彼の視線が、わたしを捉えた。
「好き、って、言って」
「……え?」
「言って」
「……好きだよ」
あの頃と同じように、照れ臭そうに笑う顔は、わたしが覚えていたそれよりももっときらきら輝いて見えた。耐えられなくなるかもしれない、押しつぶされそうになるかもしれない。それでも今は多分、一緒にいたい、なんて、自分勝手なことを思ってしまう。
「わたしも」
「……え?」
「わたしも、好きだよ」
「それ、答えってことでいいの?」
小さく頷くと、ほんとにちゃんと考えた?と笑って、温かい手がわたしの髪の毛を優しく撫でる。それだけで、なんとかなるかもしれない、と安心してしまう。応えるように、わたしもなんとか笑ってみせたけれど、彼に伝わっていたかどうかは分からない。二次会行かなくていいの、なんて野暮なわたしの台詞は、生ぬるい夜の空気に溶けて消えた。