少しだけ息をしないで



 「そうやってまた逃げる」彼の低い、重たい声がわたしを制した。彼は、多分怒っていて、痺れを切らしたように、ドアノブを握るわたしの手を掴む。テーブルから何かが落ちる音が聞こえて、振り返ると、少しかさついた唇がぶつかった。無理やりに呼吸を整えながら胸をぐっと押し返すと、やっぱり怒っているらしい彼と、目が合う。

「なに」
「……仕事中、ですよ」
「最初に私情持ち込んだのそっちでしょ」
「離してもらえますか」
「いやだって言ったら?」
「ホークスさんのそういうとこ、苦手です」

 その言葉に、彼の表情が少しだけ歪んだ。わたしの腕を掴む手は、一向に力を弱めず、むしろ強くなるばかりだ。けれどわたしにとっては、その力よりも、この関係が一番苦しかった。もう随分と前から続いているこの関係が、苦しくて、たまらなかった。

「いつになったら好きになってくれます?」
「……ならない」
「素直やなかね、ほんと」
「しごと、」
「それどころじゃないでしょ、貴女」

 何もかも夢だったのだ、と思うことにしていた。彼の唇が肌に触れた感覚も、時々くる電話やメールも全てわたしの妄想で、彼は最初から存在すらしていなかった。していたとして、出会うことはなかった。そう思えば不思議と悲しくなかった。今ならまだ戻れる。今ならまだ、間に合う。そう思って、メールも、電話も、気づかないふりをしていた。
 仕事で久しぶりに会った彼が、酷く不機嫌そうにわたしを見るから、逃げ出さずにはいられなかった。

 最初、手が好きだと思った。彼と初めて会ったのは、仕事の打ち合わせ。仕事柄、ヒーローや芸能人と会うことがそんなに珍しくないわたしは淡々と、企画書に沿って説明を進めて、彼はわたしと企画書に交互に視線を送りながら、時々納得するように頷いた。

「ペン、」
「はい?」
「ペン借りてもいいですか」
「これあんまり書きやすくないですけど、どうぞ」

 あまりかわいいとは言えないキャラクターがでかでかとプリントされた安っぽいペンが、彼の骨ばった手におさまって、ゆるゆる滑る。その不釣り合いな様子が、妙に愛おしく見えた。そのまま撮影が始まって、またしばらく会う機会はないだろうと思っていたのに、その日の夕方、見知らぬ番号から電話がきて、聞き覚えのある深い声が、ホークスです、と言った。

『ペン、返し忘れました』
「ペン?」
『あの書きにくいやつ』
「ああ……それあげます。捨ててもいいですよ」
『まだスタジオ?』
「今出るとこです」
『ああ、俺近くいるんで、返します』

 律儀なのか、ただ変わった人なのか、分からなかったけれど、指定された居酒屋は入り組んだ場所にあって、サイドキックやスタッフと飲んでいるのかと思ったら、なぜか一人だったし、わたしを見つけるなりビールでいいですか?と訊いてきたし、やっぱり変わった人なのだと思った。

「え、あ、ビールで」
「プチ打ち上げってことで。あ、これ、ペン」
「あ、ありがとうございます」
「大事なやつかと思ったんですけど、そうでもなかった?」
「え?」
「すごい使い古されてたから、思い出のペンとかなのかと」
「あー、中学のときに、好きだった男の子がお土産でくれたやつなんですよ」
「やっぱ大事なやつじゃないスか」
「いや、別にもうそんなあれなんですけど、なんとなく捨てるのもダメかなと思って」
「それを俺に捨てさせようとしたわけだ」
「え、あ、そういうわけじゃなくて」

 冗談、と笑った彼が、一気にビールを流し込む。なんとなく、ペンをくれた人に似ていると思った。顔は鮮明に覚えていなかったけれど、そのときは、似てると思った。
 それから何の話をしたとか、そんなことはあまり覚えていなくて、いつ店を出たのかも、そのあとどこに行ったのかも、曖昧な記憶しかない。ただ、背中に感じた床の固さと、冷たさ、それから「責任とれるんですか」と言った自分の声だけを鮮明に覚えている。





 じりじりと、逃げ場をなくすように追い詰められて、わたしは思わず俯いた。「なんでこっち見ないの」と、耳元の空気が震えて、お気に入りらしい香水の香りが、わたしを包む。

「連絡無視されてた理由とか、想像つきますけど」
「……」
「好きじゃないとか、もう会わないとか、本心なら諦めます」
「……あきらめるって、」
「いやだ?」
「本気じゃないくせに、」
「本気じゃないやつに、ここまでするほど暇じゃないよ、俺」

 彼はちょっとだけ照れたように笑って、中指につけていた指輪をわたしの薬指に滑り込ませる。わたしには緩くて、指先を下に向ければすぐに落ちてしまいそうだった。わたしはようやく顔を上げて、「どういうつもりですか」と彼に尋ねる。

「本気だって分かってくれないから、予約ってことで」
「…………は?」
「もうそろそろ認めましょ?」
「なにをですか、」
「俺のこと好きだって」

 本気になるのが怖いと思っていた。まだ間に合うからと思っていた。けれどもう、とっくにそんなところは通過していて、後戻りなんてもうできないところまできていたのだ。「ちなみに俺は好きですけど」なんて、いつもは強引で滅茶苦茶なくせに、酷く優しい声で言うものだから、反射的に「わたしも好きだと思います」と返してしまった。満足気に微笑む彼と目が合う。

「やっと言った」
「……言わされた、」
「あのペン、代わりに捨てといてあげますね」
「なんでですか、」
「俺以外にもらったもの大事にしてちゃだめでしょ、」

 自分で言っておきながら恥ずかしかったのか、「あとめちゃくちゃダサいし」と付け加えて、わたしの薬指に嵌った指輪を大きな指で弄ぶ。「今度ちゃんとしたの買ってあげますよ」と息を吐くように穏やかに微笑むから、わたしは「ペンも買ってくださいよ」と、返した。