MASCARA



 だからもうさよならだ、と、彼は落ち着いた口調でわたしに言った。わたしは泣きわめくわけでも、理由を問い詰めることもなく、ただ、分かった、と頷いた。そのことに対して、彼は特に驚くこともなかった。わたしがそういう人間だと、知っているからだろう。目の前にいる彼は、悪い人には到底見えなかった。笑うときにできる目尻の皺も、常に上がっている口角も、雑踏の中でもはっきり耳に届く明瞭な声も、全てが真っ当なヒーローそのものに見えた。人を信頼させる何かを持っていた、彼は。

「計画が成功した。もう俺がここにいる理由はないよ」
「そう、もう会えないの?」
「そうだね、もうこの町を出るから」
「成功、おめでとう」
「はは、引き止められないのは楽でいいけど、案外寂しいもんだね」
「それでいなくならないなら、いくらでも泣くけど」
「……そういうとこ、本当に好きだったよ」

 嘘ばっかり。心の中ではそう言って、わたしも、と声にだした。どちらも本心だった。もういなくなるくせに、そういうことを平気で言い残すところ。彼が人誑しと呼ばれる所以なのだろう。成功した、という計画を、わたしはよく知らない。彼がベッドの上で話してくれたその計画は、わたしの頭では到底理解できるものではなかったけれど、それを実行すれば彼が今の立場でいられなくなることだけは分かった。

「遠くに行くの?」
「そうだね、全てを消して、海外にでも行くよ」
「そんな簡単に消せるかな」
「公安は俺の存在を隠したがるだろうから、簡単だ」
「でも記憶は消せないじゃない」
「俺を憶えててくれるの?」

 彼は眉を下げて、困ったようにそう言った。わたしは、彼が人を殺そうが、騙そうが、そんなことはどうだっていいと思っていた。わたしは彼の真っ当なところや誠実なところを好きになったわけではなかったし、この計画について愉しそうに話す彼は見ていて心地がよかったから。最後に彼がわたしと会ってくれたのは嬉しかったけれど、最後なら最後と言ってくれればよかったと思う。そしたらわたしはもっと、最後に相応しい身なりをしたし、こんな寂れた喫茶店を待ち合わせ場所には選ばなかった。彼は、きっとすぐに忘れるよ、とやけにさっぱりとした口調で呟いてから、甘そうなカフェラテに口をつけた。

「わたしの家に置いてある荷物、どうする?」
「ああ、好きにしていいよ、捨ててくれてもいいし」
「……じゃあ置いとく」
「ふ、らしくないこと言うね」
「そうかな」
「すぐに燃やしたりするタイプだと思ってた」

 ふとした瞬間に思い出して苦しくなるくらいなら、ずっと憶えていたほうがいいと思う。とは言っても、わたしの部屋にある彼のわたし物は恐らく、カッターシャツが数枚と、度数の弱い眼鏡、文庫本が一冊、あとは殆ど消費されていない煙草がワンカートン、それくらいだ。きっとわたしは数年後も、本の栞の位置までそのままに、彼の面影と一緒に暮らしているかもしれない。それならいっそ、彼に渡した、もうずっと使われることはないだろう合鍵と一緒に、わたしもこの世界から消えて無くなりたいくらいだった。

「最後に何か言いたいことはある?」
「たのしかった、一緒に過ごせて」
「うーん、最後くらい本心が聞きたかったな」
「本心じゃないと思うの?」
「まあ俺にはわからないけど、」
「鷹見さんは、言いたいことある?」
「俺?難しい質問だね」

 もう冷めきった紅茶が口の中でざらついた。言いたいことなんてないだろうに、必死に何か言葉を探している。彼にとって見たらわたしなんてただ通過点にいただけの女で、事故みたいなものに過ぎない。けれどわたしの耳まで届いた答えは、予想とは違うもので、いたずら心とかそういうものだとしたら、随分と悪趣味だと思う。
 ポケットから取り出した真っ黒い財布からお札を数枚抜き取って、行かなくちゃ、と彼は言った。わたしは頷くことしかできなかった。声を出してしまったら、きっと涙が溢れてしまうだろう。彼が最後に見るわたしは、どうか凛とした表情であって欲しい。

「愛してた。またいつかどこかで」

 そんな言葉で顔を上げた頃には、もう喫茶店の扉が音を立てて閉まっていた。凡庸なラブストーリーにもならない、あまりにもあっけない終わり。
 また、いつかどこかで。そう呟けば、涙が止まらなかった。彼がくれた言葉は酷く不確定で不明確だったけれど、わたしにはとってはそれがたったひとつ、あの人との最初で最後の約束だったのだ。