pacifist



「あれ、くん?」
「……俊典さん、」

 私、八木俊典にとってのという青年は、いわば親友の忘れ形見だった。
 彼の父親――鴿、ここではコウと表記しよう――と初めて会ったのは高校二年生の時。たまたま図書室で借りる本が同じだったことから思いの外ヒーロー談義が弾み、私がお師匠と死別してアメリカに渡るまで、私はヒーロー科、コウは普通科の生徒であったけれどもほぼ毎日のように一緒にいた。その頃から既に、親友と呼んでも差し支えのない存在だった。
 コウは一度取り決めた定約は決して違わないような非常に義理堅い性格で、不器用でやや天然、ほんのすこしだけ素直ではなく、けれどもただ純粋にヒーローが好きなだけの至って普通の奴なのだと知ったのはそう遅くはなかったと思う。ヒーロー向きではない個性を持つコウ自身もそれは十二分に承知していて、サポート科でも経営科でもなく普通科に入学したのはヒーロー飽和社会への貢献とはまた違ったかたちで誰かのヒーローたりえる存在になりたいと思ったからだということを聞いたのは互いに高校二年生となったときだった。
 私が渡米してデヴィットと出会い、アメリカで活動を初めてからも海を隔てて頻繁に連絡は取り合って、プロのカーレーサーとして働くコウが結婚をしたのだと聞いたのはそれからおよそ五年程が経った頃であった。自分と似たような個性を持つ栄養士の女性である、とメールに同封して送ってくれたその写真には、すこし癖のあるオリーブ色の髪を靡かせ、碧色の瞳を弓なりに細めて薄らと穏やかに笑う女性が映っていた。

「やあ、久しぶり。元気かい?」
「……その言葉、そっくりそのままお返しします」
「ンン……、手厳しいね」
「そりゃそうでしょう、あんな無茶して。……まあ、俺は元気ですよ。俊典さんこそ体調は大丈夫なんですか?」
「私も今は落ち着いてるよ、お陰様でね」

 と名付けられた少年と初めて会ったのは、私が日本に戻ってコウが当時在住している宮城に赴いたときだ。当時、彼はまだ中学生にも満たない齢であったと記憶している。母親によく似たオリーブ色の髪を僅かに揺らしながらランドセルの肩紐を握り締めていたあの頃の彼はもういない。背が伸びて、肩幅が広くなって、目鼻立ちがはっきりとしてきて、精悍になった顔つきは十年前とはまるで別人だ。毎日ではないにしろそれなりの頻度で会ってその姿を見ているはずなのに、ときどき思い知らされる。時間の流れの速度と、私が立っている位置と、彼との差異。今ではすっかり大人の男性になってしまった。それを嬉しいと思っているのに、同時にどこか寂しさも覚えてしまうのはどうしてだろうか。
 彼本人から直接聞いたわけではないのだけれども、警察の職に就いているくんも神野の現場に駆り出されていたと知ったのはつい最近のことだ。幸いにも彼の怪我はかすり傷程度で済んだようだけれども、私が今まで隠し通していた無理や無茶を病室で滾々と咎められたのは記憶に新しい。まるで子どもを叱る親のようにも見えたその姿に、随分と頼もしく育ったものだなと孫を思う祖父のような気持ちでひとりしみじみとしていたらひどく呆れた顔をされてしまった。
 神野で私の本来の姿が世間に晒されてからというもの、以降マッスルフォームだけではなくトゥルーフォームまでもが“オールマイト”としての認識が強くなって、余計に“八木俊典”の存在を知るものはごく僅かになった。今となっては私を俊典と呼ぶのは先生――グラントリノと、そしてくんだけだ。尤も、マッスルフォームのときも私を俊典と呼ぶのは先生だけで、公私混同をあまり好んでいないくんは仕事中に会った折には頑なにオールマイト呼びのスタンスを崩すことはなかったけれども、それが“八木俊典”のプライベートを保守するための気遣いであることもわかっていた。

「俊典さん、なんでもひとりで抱える悪癖あるから心配なんですよ。守秘義務云々を抜きにしても、もうちょっと周囲を頼った方が良いと思いますけどね」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」

 先程の彼の言葉をそのまま引用すると、途端に困ったように眉を下げた。普段はきりりとしたやや硬い表情をポーズにしていることが多いから厳格なイメージを持たれてしまうことが多いのだけれども、実際にはとても実直で良い子なのだ。ただほんのすこしだけ、素直ではないだけ。容姿こそほぼ母親似であるものの、そういった部分はコウによく似ている。いつだったか、コウに言われた言葉を思い出す。

「君は随分と自分勝手だ。心配をかけないようにと、大丈夫だと。抱えるものは自分だけのものだからと。その心構えは大変結構なことだと思うけれどもね、それはすべて君の気持ちばかりだ。そんな君を心配する、助けたいと思う周りの気持ちは汲み取ってはくれないんだろうか」

 コウは聡かった。他人の感情の機微にも自分に向けられるそれにも敏感で、勘もいやに鋭かった。私が訓練で負った怪我を彼に隠し通せた試しはない。どんなにうまくごまかそうとしたってどうしてもバレてしまって、そうして保健室に引きずられていく道中で滾々と説教を受ける羽目になるのだ。こういうところも、くんはコウによく似ている。

 私が初めてくんに会った数年後、コウと奥さんが亡くなった。くんが中学生になってすぐのことであった。ヒーロー活動が繁忙で葬儀に参列することが叶わず、漸く一回忌に顔を出すことができたけれども当時はまだ世間に私の真の姿を知られていないときだったものだからマッスルフォームで出るわけにもいかず、オールマイトとしてではなく八木俊典として参列した。
 死因はどうやら敵の個性による事故であったらしい。らしい、というのは未だにその敵が捕まっていないからだ。敵の罪状は業務上過失致死傷罪と判断されたものの遺体の損傷状態が激しすぎたためか情報が然程得られず捜査は非常に難航して、未解決のまま凍結し、遂には四年前に公訴時効を迎えてしまった。もう捜査を行うことも、敵を逮捕することも叶わない。法的に裁きを下す手段は永遠に失われてしまった。
 だから、高校一年生の夏。将来の進路を考えていたくんが刑事になると言った時、私は内心危惧した。もしかしたら彼は、ご両親を殺した敵への復讐のために警察官になる道を選んだのではないか、なんて。もし本当にそうであれば、その道は私が閉ざさなければならない、とも。けれども。

「俊典さん、俺ね、思うんです。人は痛みや苦しみを味わって、苦しんで、乗り越えて、それを優しさに変えてくのかなって。事件によって心が傷つけられた人がいるんなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手立てを探し出すのも、刑事の役目なんじゃないかって」

 ああ、彼は強い。そう思った。同時にみずからの弱さと思考の浅はかさを恥じた。あのコウに育てられた彼が、実直で聡明な彼が、有ろう事か復讐なんて企てるわけがない。そんなことは分かっていたはずなのに、どうやら彼より私の方がよっぽど冷静ではないようだった。

「君も、もっと誰かに頼ったっていいんだ。大丈夫。きっとどこかに必ず、君のヒーローがいるさ」

 小学生だったあの頃に比べれば随分背が伸びたにしろ、それでも私から見れば未だ小柄に見える。すっと手を伸ばしてわしわしと頭を撫でてやれば、一瞬きょとんと目を丸くしたくんは、次いでぶわりと頬を赤く染めた。恐らく初めて見るであろうその表情に、おや、と首を傾げる。

「もしかして、もういたりするのかな?」
「な、やっ、違います!」
「誰だい?おじさんに教えてごらんよ」
「いませんって!悪ノリやめてくださいよ、もう!」

 あといい加減子ども扱いはやめてください、と参ったように眉を下げて頭に乗せられた手を退かすように頭を振る様子に、抱いた違和感は確信に変わった。なんだ、とっくに彼のヒーローは見つかっていたのだ。それならば、もうなにも心配はいらないだろう。一度おおきな喪失を味わった彼が二度と涕涙で肩を震わせることがないのならば、たぶん、傍にいるのは私でなくても構わない。けれど体内にずっと擁してきたものをそう簡単に消すことは容易ではない。だから今は呼吸を止めて、私はそっとこころのうちで彼のヒーローにテレパシーを送る。実際には私にテレパシーが使えることなんてあるわけもなく、近年の科学技術の進歩がめざましいとはいえ決して期待してはいけない部類の夢物語だろうけれども、どうか届いて欲しかった。
 ああ、彼のヒーローよ、聞こえているだろうか。どうか、彼のことを私の代わりに守ってやってはくれないだろうか。どうか、彼のことをからだでもこころでもなく構成要素のすべてで愛してやってはくれないだろうか。
 いつ叶うかわからなくても、それを見届けることが叶わなくても構わない。もはや親友の忘れ形見であることを通り越して、ただ彼のことだけを思って信じもしない神に願うはひとつ。
 どうか、どうか、誰よりも幸せに。